世襲親王家の廃止
1868年4月、皇族の出家が禁止された。
「宮堂上之庶子等追々其材ニ随ヒ御登用可有之候間以来僧徒ニ致ス間敷候様被仰出候」
1868年閏4月に新政府は「大宝令」どおりの皇親の範囲を定めるとともに、
世襲親王家については、
その嫡子は従前どおり天皇の養子となり親王宣下を受けること、
新立の宮家については「親王は一代限り」とし、
二代目は賜姓降下する「一代皇族の制」を定めた。
しかし「一代皇族の制」は守られず、
当主が薨去した以下の3宮家は、
相次ぎ世襲が許された。
「北白川宮」北白川宮智成親王 (1856年- 1872年)
「華頂宮」華頂宮博経親王(1851年-1876年)
「梨本宮」梨本宮守脩親王(1819年 - 1881年)
更に1881年、維新の功労により東伏見宮(その後、小松宮と改称)が世襲皇族に列せられた。
更に同年、山階宮が二代皇族に列せられた。
そして、1883年、久邇宮が二代皇族に列せられた。
宮内省は1879年に四親王家と直宮の親王家をもって皇統御扣ノ家とし、
親王家の数を4以下とするため、
新設される直宮の親王家の数の分だけ、
既存の四親王家の4宮のうちの皇統に遠い宮の家を諸王家とし、
かつ、その他の宮家も諸王家とし、
諸王家の二男以下及び、
諸王となった皇族から五代目の嫡玄孫以下を華族に列する案を太政大臣に上申した。
「親王家諸王家御子女御処分之儀上申」
(国立公文書館所蔵『公文録』明治 14 年第 221 巻「梨本宮継嗣菊麿王御処置ノ件」所収)
また、1876年5月30日太政官第 80 号布告により「往古の制」に復するということで
皇子女については生まれながらに「親王」とすることが定められた。(※ 往古とは大昔)
しかし1878年に閑院宮を相続した伏見宮邦家親王の王子「易宮」が、
親王宣下を受け載仁親王となったように親王宣下による世襲親王家が存続した。
1882年、右大臣「岩倉具視」の建言に基づき宮内省内に皇室制度を調査するために
岩倉を総裁心得とする内規取調局が設置され、
皇族の範囲が調査事項の一つとなった。
同局が1883年に起草した「皇族令」草案では、
皇子女を親王・内親王、その他皇族を王・女王とし、
皇族から皇太子になる場合以外の天皇の養子の制を廃止し、
実系による五世以下を賜姓して華族に列すると規定した。
これは世襲親王家の制度の廃止を意味した。




