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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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皇位継承の種類


男系の血が600年も交わらずに男系継承できるものなのか。

まさか世襲親王家という看板であれば、

男系の血の交わりが600年間なくとも、

皇位継承できるという理屈なのが世襲親王家の言い分である。

今、その理由は果たして正当なのかを考えてみたい。

室町時代から江戸時代までは、

世襲親王家の当主は天皇と、どんなに血統が離れていても、

親王宣下が受けられる権利があった。

親王宣下とは読んで字のごとく、

親王と指定されることであり、

親王とは嫡出の子という意味である。

普通、世間一般では、

婚姻関係にある男女から生まれた子を嫡子と言うのだが、

皇室ではそうではないらしい。

天皇が親王だと宣下すれば、

その子は嫡子になれるわけである。

つまりヤクザの杯や、カルト宗教の怪しげな儀式と同しなのである。

そして嫡子、即ち親王になれれば、

皇親になれ、皇位継承資格者になれる。

皇親ならば禄も受けられる。

ゆえに世襲親王家は裕福だったと推測される。

ところが、明治の王政復古の名の元に、

世襲親王家と親王宣下が廃止される事となった。

皇親の範囲を大宝律令の範囲に戻す議論が持ち上がった。

大宝令では、

天皇と5世以上離れた皇親は臣籍降下せねばならない。

南北朝時代、亀山上皇の末っ子恒明親王や後二条天皇の実子の邦良親王が授かった特権を、

ようやく正す機運が訪れたわけである。

しかし、世襲親王家の抵抗は激しく、すぐさま世襲宮家の廃止とはいかず、

世襲親王家はそのまま、それ以外は一代宮家や二代宮家という家格を与えられ、

それすら守られないという体たらくに終わった。


そして明治22年、皇室典範制定。

ようやく世襲親王家、親王宣下を廃することができた。

しかし、代わりに永世皇族という制度を制定する羽目になり、

逆に宮家の焼け太りに加担することとなった。

日本古来の祖宗の制なら、皇親の範囲は4世までである。

本来では皇孫である「二世王」から「五世王」までに

臣籍降下するのが通例であった。

そんな日本の伝統は

宮家の権力強化を図る永世皇族制のために壊された。

永世皇族は本当に日本のために作られたのであろうか。

私には伏見宮が井上毅を使い、

伏見宮の権力を強化したようにしか見えない。

近代化を名目に欧州王室を真似て永世皇族制を作ったというが、

伏見宮にとって都合よく変更されただけではないか。

伏見宮が私欲に走った結果が明治の皇室典範であろう。

人為的に皇室の伝統が壊されたのは、これで2回目であった。

1回目は世襲親王家が作られたとき、すなわち後醍醐天皇が即位した1318年。

2回目が永世皇族が作られたとき、すなわち旧皇室典範が制定された1889年。

明治維新の前後、還俗した多くの親王が、新たな宮号を賜った。

これの取り扱いを成文化したのが

1889年2月11日制定された「皇室典範」であった。

皇室典範では皇親という言葉が消え、

皇族という言葉が使われた。

そして、その範囲が永世とされた。

時の皇族の男系子孫は永世にわたって皇族であり続けると定められた。

身位は世数による機械的な運用を再開して、

四世孫までは親王/内親王、

五世孫以下は王/女王とされ、

本来、内親王/女王は、

臣下の男性と婚姻したら、

身位を返上し臣籍降下することが定められていたが、

欧州では王族は一生王族のままであるゆえ、

日本も欧州の基準に合わせ、

皇族の身分は失わせない方針が打ち出された。

親王/王と婚姻した臣下の女性は皇親に含めなかったが、

これも改められ、

新たに創設された親王妃/王妃の身位が授けられ、

皇族に加えられる事となった。



その後「皇族」の増加を受けて、

1920年5月19日、臣籍降下の準則が定められ、

「五世孫」から「八世孫」までは嫡男以外は臣籍降下し、

「九世孫」は嫡男も「臣籍降下」することとなった。

大宝律令では皇位継承は皇親に限るという条件のもと

「父子継承」を原則とし、状況に応じて、

「孫」「兄弟」「従兄弟」「甥大伯父」という間で行われていた。

初代「神武天皇」~第13代「成務天皇」までは、

全て「父子継承」(1親等)であった。

14代仲哀天皇で「甥継承」(3親等)となるが、

15代~17代まで「父子継承」(1親等)に戻る。

18代19代と「弟継承」(2親等)が入るが、

20代でまた「父子継承」(1親等)となる。

最終的に125回の「皇位継承」は以下のように分けられる。

▪女性継承が10回(8%)

▪父子継承(1親等)が67回(53.6%)

▪兄弟孫継承(2親等)が28回(22.4%)

▪叔父・甥(3親等)が8回(6.4%)

▪従兄弟・大伯父・大甥(4親等)が5回(4%)

▪又従兄弟等(5親等以上)7回(5.6%)

このように、歴代の「皇位継承」では、様々な継承形態があるが、

必ず四世の範囲内で、次期天皇を選ぶよう努力してきたのがわかる。

それほど皇位継承において「祖宗の制」という掟は大きかった。

しかし宮家の制度が整備される中、

宮号を継承する当主は何代世代が下っても、

天皇・上皇の猶子となることで親王宣下を受けられることが慣例化し

親王という身位の方が血統よりも重視される風潮が鮮明になった。

継体天皇の時代は、

皇室に四世以内の男子が絶えても、

既に臣籍降下した傍系の男系を探しだし、

皇位についてもらった。

しかし、幕末には、既に出家させた男子を還俗させてまで、親王を名乗らせて、宮家当主とした。

その宮号の取り扱いを巡って整理が行われ、

1868年閏4月15日、太政官布告で宮家の家格が決められた。

旧来の「四世襲親王宮家」は従来通り「親王宣下」による継承を行い、

その他の宮号は「一代限り」もしくは「二代限り」とし、

当主以外の子女は「臣籍降下」させる方針が打ち出された。

しかし、その方針は守られず、

その後も「新立の宮号」も「親王宣下を経た継承」が続き、既成事実化した。

1889年2月11日、皇室典範が制定され、

新立の宮号の継承が認められるとともに、

親王宣下の制度は廃止されて、

四世までを親王、五世孫以下の称号は世襲親王家の継承者も含めて「王/女王」に固定されること、

即ち「永世皇族制」が取り入れられることとなった。

鎌倉時代以降、

邸宅・所領とともに、

家の称号としての宮号を世襲した「岩倉宮」「四辻宮」「五辻宮」が興ったわけだが、

その当主、継嗣は、必ず親王宣下を受けれたわけではなかった。

しかし鎌倉時代末期になると天皇・上皇の猶子・養子となることを要件に、

実系による世数にかかわらず、当主・継嗣が代々、親王宣下を受ける事ができるようになり、

明治、皇室典範は親王宣下も世襲親王家の制度も必要のない、永世皇族制が生まれた。




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