親王と王と公
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いは、
1221年の承久の乱である。
承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権である北条義時に対して起こした。
貴族政権を率いる後鳥羽上皇と、
武家政権を率いる鎌倉幕府の対立抗争は、
鎌倉幕府の勝利で終わり、
朝廷の力は急速に衰えた。
朝廷の財政が削られたため、皇親への賜姓降下が推奨された。
たとえば皇親に属する二世以下の「王」と呼ばれる存在が急速に減り、
皇統に属する男子は出生時「諱」を与えられず
「~の宮」という「称号」で呼ばれるようになった。
彼らは宮家の継承や出家の前に、親王宣下が行われ「諱」が与えられるようになった。
そのため、同時代的に「王」の称号を使う者は、白川伯王家のような神事を司る
「一部の家の者」のみとなった。
現役の皇室の中は「王」不在の状態が続くようになった。
1868年閏4月15日「王政復古」の号令のもと、
「親王」「王」「皇親」に関する法制が、
改めて律令時代の規定に戻された。
これによって「一世が親王」「二世から四世が王」「皇親は四世」までとなりました。
維新前後に「還俗」し「親王」の名乗った「宮号」は「一代限り」とし、
その子は「臣籍降下」することとされました。
しかし、江戸時代から続く「四世襲親王家」は従来通り親王宣下を行ったうえ世襲することが許され、
一代限りとされた「新立の宮号」も男子が親王宣下を受けた上で継承されるなど、
実質的には、慶応4年の太政官布告は無視され「世襲親王家」が増加する結果になりました。
そういった明治政府内の勢力変化により
1889年1月15日「皇室典範制定」によって改めて整理が行われ、
「四世孫までは親王」
「五世孫以下は永世にわたり王」と定められ急速に皇籍保有者の数が増加しました。
この増加した皇親は従来の皇親の範囲を大幅に越えるため、
新たに「皇族」という呼称が使われました。
その後「皇族」の更なる増加を受けて、
1920年5月19日に「臣籍降下の準則」が定められ、
「五世王から八世王は嫡男以外臣籍降下、九世王は嫡男含め全員が臣籍降下する事」となりました。
1920年が大正9年であるため、大正9年臣籍降下準則と呼ばれている標準規定ですが、
旧皇室典範が永世皇族制を打ち出した1889年から31年後のことでした。
まず旧皇室典範公布の18年後、
1907年2月11日「皇室典範増補」というものが、伊藤博文の肝いりで定められた。
旧皇室典範制定によって、世襲親王家を廃止する代わりに、
永世皇族制が採用されてしまったわけで、
伊藤博文は1898年2月、以下のように述べ、帝国制度調査局を作る。
「皇室典範制定時に臣籍降下を規定できなかったのはやむを得ない事情によるものであった」
伊藤の本心は皇族数を制限する事であり、上のよう上奏した。
翌年、宮中に帝室制度調査局が設置され、
皇室典範増補によって、
「5世以下の王が勅旨又は情願によって華族になる」ことや、
「降下した後に皇族に復帰できない」こと等が定められた。
しかし、皇室の膨張は止まらず、勅旨による降下は皆無であり、
請願による降下も、
1910年7月に北白川宮家の輝久王が、
小松宮家の祭祀継承のために降下した1例のみに留まっていた。
そこで、規定の運用のため、
1919年1月から帝室制度審議会で「皇族処分内規案」が検討され、
天皇の5~8世の子孫は各世代に一人のみ留まり、
それ以外の王は、
「請願が無ければ勅旨により華族に列する」と強化された。
この変更は伊藤博文の執念の賜物だろうが、
伊藤自身は13年前の1907年ハルピンにて暗殺されていた。
この暗殺は謎が多く、朝鮮併合や満鉄関連の関与が疑われるが、
伊藤が皇室典範増補を成し遂げた2年後の明治42年10月26日であることはスルーされている。
永世皇族制を実質的に潰したのは、この皇室典範増補であり推進したのは伊藤博文であるという事実にもっと注目してもいいにではないかと思う。
大正9年の準則では伏見宮邦家親王の子孫については、
邦家親王の王子を1世として計算する、
すなわち伏見宮邦家を天皇の玄孫(4世孫)として扱うという特例が付いた。
この具体的基準案は枢密院での諮詢・修正を経て
「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」として可決され、
1920年5月15日の皇族会議にかけられた。
しかし、久邇宮邦彦王から「皇統の断ずる懸念あり」
「(皇太子以外の、未成年である大正天皇の皇子達が)会議に列せらるゝ様になりたる後、之を定めらるゝ方適当と信す」と反対意見が挙がり、
これに同調する皇族もあった。
そこで、皇族会議令第9条による、
自己の利害に関することは表決に参加できない規定を適用して、
議長の伏見宮貞愛親王は表決しないことを決し、
同年5月19日に大正天皇の裁定で成立した。
以後、大正時代に3名、昭和時代に9名が、旧皇室典範により臣籍に降下した。
この「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の肝は
天皇の「勅旨」というところです。
勅旨は、主に天皇の命令や意思を指し、
律令制下では天皇の私的な命令や特定の個人に向けられた公文書の一種です。
また、天皇の意向を伝える文書である「勅書」を指すこともあり、
転じて「天皇の意思」そのものを意味することもあります。
この勅旨を強制力はない、と一部の評論家が解説していますが、それは間違いで、天皇の勅旨に反する行動を皇族がとることは無理だったといえます。
1920年に作られた「大正9年の皇族の臣籍降下に関する準則」
これは1907年に作られた「皇室典範増補」に基づく臣籍降下の具体的な基準を示したものです。
「長子孫の系統4世以内を除き、勅旨による賜姓華族への列格が可能」という、
一般的には禁止されていた皇族の臣籍降下が復活したという事でした。
しかし、あくまで「情願による」降下が原則であったというのも事実です。
ゆえに公布されずに運用されました。
なるべく穏便に運用するものだったのでしょう。
また、伏見宮系の皇族には、
便宜的に邦家親王を「皇玄孫」と見なし、
準則を準用する特例が設けられました。
つまり、伏見宮家の邦家親王の子孫については、邦家親王を皇玄孫と見なす、という特例です。
皇室典範増補第1条に基づく臣籍降下の情願、について特例を示したわけです。
原則:は、長子孫の系統4世を超えた場合は、家名を賜って華族に列せられるとされていました。
そしてその運用は、臣籍降下は「情願による」ことが原則とし、
準則は「常例として準拠すべき大体のものである」とされました。
その結果、この準則が制定されてから廃止されるまでの期間(1920年~1946年)に臣籍降下した12件は、いずれも情願によるものだったため、準則が直接適用されたものはありませんでした。
しかしながら、現代、皇位継承問題を議論するとき、既に旧宮家の男子は、邦家の5世を越えている。
早い話が、戦後GHQの圧力によるとされている皇籍離脱がなかったとしても、旧宮家の男子は皆、皇籍離脱しなければならない運命だったといえる。
話を平安時代に戻します。
798年、桓武天皇は「慶雲3年の格」を停止し皇親の範囲を「大宝令制」に復しました。
それ以降「皇孫」である「二世王」から「五世王」の代までに「皇親」でなくなるのが通例となり、
皇室から分かれて「賜姓」されていない「皇親」は「○○王」と称し「諸王」と呼ばれた。
「諸王」は「賜姓」されていない「皇胤」だが「皇親」ではなく「臣籍」に分類され、
この「諸王」たちをまとめて「源氏」「平氏」「藤原氏」と同等に「王氏」と呼んだ。
古来より「皇親」という呼称は天皇の一族として、
政府からの保護を受けるものを指し、
その範囲は歴代の天皇の「男系卑属」であることを大原則とした。
卑属とは、血縁関係がある人(血族)のうち本人より後の世代の人を指します。
元々は「世数の制限」は定められておらず、
「王」「女王」の称号を名乗るものは「皇親」という扱いであった。
「氏」を名乗って「公」の称号を有したものは「皇籍」を離脱したものとされ、
「慶雲3年の格」(706年)で6世以下の「王」はただの呼称であり「臣籍」とされた。
「大宝令」(701年)「養老令」(757年)により「皇親」の範囲が定められ、
2度変更はあったが、
9世紀以降「皇親」の範囲は、
歴代の天皇の「男系卑属」で「四世」までとされた。
身位は、一世は「親王・内親王」、二世以下は「王・女王」とされた。
皇親の範囲の変遷をさらに詳しく解説すると、
706年、慶雲3年2月16日「文武天皇」の勅令により、
皇親の範囲が「五世孫」まで広げられるとともに、
「六世孫」以下でも「五世王」の「承嫡者」(嫡男)は代々「王」の称号を許されることになった。
更に、729年、天平元年の格、により「六世孫・七世孫」であっても、生母が「二世女王」である場合は、
「承嫡者」(嫡男)以外も全員「皇親」とされた。
「一世内親王」の婚姻相手は「四世王以内」とされたため、
「五世王・六世王」の婚姻相手としては「二世女王」が最高位であった。
この身分の高い「二世女王」と結婚した「五世王」「六世王」はその子は全員「皇親」となったが、
「皇親」となれるのは「子」の世代だけであった。
「孫」世代は「皇親」の範囲外であった。
つまり最高で「7世」までが「皇親」でいられた時代が、
この「天平元年~延歴17年」(729年~798年)頃あったということである。
798年、延暦17年閏5月23日「桓武天皇」の勅命により、
「皇親」の範囲を大宝律令の頃へ戻した。
しかし「六世孫」以下が「王」の称号を名乗ることは引き続き認められた。
古来より日本では「皇親」と認められれば、
多額の田地や禄が支給されたが、
律令制の元では「皇后」「妃」といえども、
臣下の家に生まれた場合には「皇親」とは認められなかった。




