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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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宮家の誕生


とある国会図書館の調査員が書いた論文があります。

題名は「旧皇室典範における、男系男子による、皇位継承制と、永世皇族制の確立」

作者は「山田敏之」さんという方です。

肩書は、「国立国会図書館 調査及び立法考査局 専門調査員 総合調査室主任」

とにかく、詳しく書いてあるので、何度も読んでます。

まず「大宝律令制の皇親制度」に関して、

非常に分かりやすく書かれていた。

全文は転載できませんが、

今回は「皇親」「親王宣下」「世襲親王家」「永世皇族制」について、

どのように考察されているのか

この論文を読みながら、

時々、wikipedia、なども加えて、

考察してみたいと思います。

まず701年「大宝令・継嗣令」で「皇親」は「四世」までと決まりました。

「五世」は「皇親」の「範囲外」と定められたのです。

その5年後、706年「慶雲 3年の格」で「皇親」の範囲が「五世」までに拡大されました。

その23年後、729年「天平元年の格」で「五世」の「嫡子」である「王」が

「孫女王」を娶って生まれた男女は「皇親」とするとされました。

1回目が701年「大宝令・継嗣令」、

2回目が706年「慶雲3年の格」、

3回目が729年「天平元年の格」、

4回目が757年「養老律令」、

このように、皇親の範囲というのは、時の状況で、弾力的に変えられてきたことがわかります。

wikipedia、では、こう記している。

701年(大宝元年)藤原不比等らによる編纂によって大宝律令が成立したが、

その後も不比等らは、日本の国情により適合した内容とするために、

律令の撰修(改修)作業を継続していた(「慶雲の改革」参照)。

三代格式の弘仁格式によれば、

718年(養老2年)に各10巻の律と令が藤原不比等により撰されている。

ところが720年(養老4年)の不比等の死により律令撰修はいったん停止することとなった。

ただし、養老期には「大倭」と表記されていたはずの国名が「大和」に修正されているなど、

いくつかの条文に天平以降の実情の反映が見られることから、その後も改訂の企てがあり、

最終的に施行の際にその成果の一部が反映されたとの見方もある。

その後、孝謙天皇の治世の757年5月、

藤原仲麻呂の主導によって、

720年に撰修が中断していた新律令が施行されることとなった。

これが「養老律令」である。



大宝律令には「王」という表現が多く使われている。

そして、徐々にその使用範囲が定められていった。

wikipedia、によると、

「王」の初出は「古事記」で「応神天皇」以降に使われるようになりました。

「応神天皇」の「男系子孫」は「世数」「男女」を問わず「諱」の下に「王」と表記され、

「おおきみ」と読んだそうです。

「神功皇后」と「仲哀天皇」の皇子である第15代「応神天皇」は、

「仲哀天皇9年生~応神天皇40年没」、111歳で没しました。

西暦では199年の生まれ、310年没、つまり3世紀全期間を治世した天皇です。

そして「応神天皇」以降は「一世子女」は「皇子」「皇女」と表記されるようになりました。

「王」「女王」は二世孫以下を指すようになりました。

一方、世数が下った「王」は「公」を用いるようになり、

同時に新しい「氏」を名乗る例が出てきました。

その後「皇親」の範囲は

798年、延暦17年閏5月23日、第50代「桓武天皇」の勅命により、

大宝令・継嗣令で定められた範囲に戻すこととなりました。

ある意味、この時、この皇親の範囲が、日本の基本、日本の皇室の基本となったと思われます。

その基本は、明治維新の大政復古の太政官布告でも、再び発布されました。

平安時代初期にかけては、子女の多い天皇が続いたことにより

「時服料」支給の対象が「五・六百人」に及ぶこととなり、朝廷財政を圧迫したゆえ、

※(時服料とは、夏・冬の二季の衣服の料にあてるために朝廷が給付する絁・布・鍬・鉄などです)

一部「一世親王」に至るまで「臣籍降下」が進められました。

これにより「王」の称号を名乗らず「氏」を名乗るものが増えて、

更に機械的に付与されていた「親王・内親王」の称号は、

生まれたときは「王・女王」で、

天皇が「宣旨」することによって

「親王・内親王」の称号が授けられるようになりました。

これが「親王宣下」の始まりです。

最初に「親王宣下」を行ったのは第47代「淳仁天皇」です。


鎌倉時代以降、皇室所領荘園の一部を、特定の親王が受け継ぐようになりました。

これが「宮家」の始まりです。

歴代最初の宮家は順徳天皇の皇子「忠成王」の御称号として創設された岩倉宮です。


1222年生まれの岩倉宮忠成王は、後鳥羽上皇の孫、順徳天皇の第五皇子です。

御称号は六条宮、岩倉宮、広御所宮など。

父の順徳上皇は(承久3年)1221年承久の乱に敗れたのち佐渡へ配流され、

1242年、又従弟の四条天皇が崩御すると、

20歳の忠成王は、当時22歳の土御門天皇の皇子の邦仁王とともに皇嗣候補として名が挙がりました。

忠成王には縁戚の前摂政の九条道家が、

邦仁王には前内大臣の土御門定通が付いて鎌倉幕府に働き掛けを行った。

一時は、忠成王の皇位継承が有力視されたのですが、

幕府執権の北条泰時は、忠成王の即位に伴って順徳上皇が帰京することを警戒した。

ゆえに、鶴岡八幡宮の神意であるとして、邦仁王を推した。

結局、邦仁王が践祚しだい88代後嵯峨天皇となった。

その後、南北朝時代に突入する。

忠成王は幼少期は六条宮の称号を名乗り、

1247年、元服と前後して洛外の岩倉に移住し岩倉宮と称号を改めました。

この時代は個々の皇族が諱にかわって名乗る「御称号」が所領とともに称号を相続する宮号へと変わる過渡期で、岩倉宮の称号が、忠成王の子孫に不完全ながら引き継がれたゆえ、最初の宮家といえる。

ただ宮内庁の資料『皇室制度資料』では、

岩倉宮を宮家の一つとすることに対して、慎重な見解を取っています。







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