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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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木寺宮


木寺宮の祖は後二条天皇の子「邦良親王」である。

初代は邦良親王の子「康仁親王」である。

木寺宮康仁親王は、元弘の乱で後醍醐天皇が隠岐に流され量仁親王が光厳天皇となったおり、

皇太子になった康仁親王に与えられた宮家である。

康仁親王は大覚寺統の正嫡で邦良親王の子である。

持明院統の正嫡「光厳天皇」に対して

大覚寺統の正嫡「康仁親王」が立てられたわけだが、

光厳天皇の最初の治世は長くは続かず、後醍醐天皇が隠岐から復活した。

新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、光厳天皇はわずか1年8ヶ月で退位となり、康仁皇太子も廃太子し、

後醍醐天皇の実子「恒良親王」が立太子した。

後醍醐天皇は兄「後二条天皇」の系統ではなく、

自身の系統を正統としようとした。

しかし後醍醐天皇の治世も長くは続かず、

わずか3年で「建武の乱」となった。

足利尊氏が後醍醐天皇を廃位し恒良皇太子も廃太子した。

そして光厳上皇の弟、光明天皇を即位させた。

しかし皇太子には後醍醐天皇の子「恒良親王」の弟「成良親王」を立てた。

これは比叡山に立て籠る「後醍醐天皇」に和平を薦めるためであった。

恒良皇太子は異母兄の「尊良親王」とともに「新田義貞・義顕」父子に奉じられて

敦賀で北陸朝廷を作った。

康仁親王は後醍醐天皇に廃太子された後、

大覚寺統嫡流にもかかわらず「木寺宮」が与えられ、

「世襲親王家」となった。

理由は「常盤井宮」と同じで、

皇位を継げるはずだった「康仁親王」への「賠償」であろう。


木寺宮は大覚寺統の後二条天皇の第1皇子、嫡流嫡男である。

後宇多天皇から大覚寺統の正嫡に指定された「邦良親王」を初代とし

第2代「康仁王」第5代「邦康王」が「親王宣下」を受けたと思われる。

両宮家とも、室町時代の中期から後期に断絶している。

邦良親王は叔父「後醍醐天皇」が最初皇位に即いたとき、皇太子に立てられたが、

間もなく薨去。

その子、康仁親王も元弘の変により持明院統の光厳天皇が践祚した際に、

皇太子に立てられたが、鎌倉幕府の倒壊後、後醍醐天皇により廃された。

両宮家の「当主・継嗣」は世襲により問題なく親王宣下を受けたわけでなく、

常盤井宮の4代「直明王」

木寺宮の3代「邦恒王」4代「世平王」は「親王宣下」を受けなかった

常盤井宮、木寺宮、共に足利尊氏と後醍醐天皇の争いの間で世襲親王家となったが、

「世襲親王家」というものが、

いかに政略の産物であったか、理解できると思う。

その歴史は、たかだか600年程度であり、日本の伝統ではない。

『康富記』によると「康仁親王」の「木寺宮」は室町時代中期まで存続したが、

その後は不明だという。




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