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伏見宮と天皇家  作者: やまのしか
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常盤井宮恒明親王の謎


最初の世襲親王家は鎌倉時代の常盤井宮である。

初代は恒明親王(1303年ー1351年)。

恒明親王は大覚寺統の嫡流である。

1326年、邦良皇太子の薨去後、立太子される予定であったが、

約束は反古にされ、結局、即位できなかった。

恒明親王の説明には、後醍醐天皇の説明から入らねばならない。

第96代・後醍醐天皇は第91代・後宇多天皇の第二皇子として生まれた。

第一皇子は第94代・後二条天皇である。

1308年兄の後二条天皇が死去、持明院統の花園天皇が即位する。

この時、大覚寺統の尊治親王が皇太子に立てられた。

本来ならば大覚寺統の嫡流である兄、後二条天皇の子、邦良親王が立てられるべきであったのだが、

邦良親王は病弱な上まだ9歳だったので「中継ぎ」ということで、

後二条天皇の弟である尊治親王が立太子されたのだ。

しかし、10年後、花園天皇が次に譲位する時、次期天皇を巡って大覚寺統内で分裂が起こった。

大覚寺統の祖、後二条天皇の祖父、亀山法王が遺言で後二条天皇の次は、

自分の末子、恒明親王を即位させよと残していたのだ。

当時は両統迭立で大覚寺統と持明院統が交互に即位する形がとられていた。

持明院統の花園天皇の次は大覚寺統が天皇に即位する番であった。

亀山法王の実子である後宇田上皇は父の遺言を実行しては大覚寺統が分裂すると鎌倉幕府に協力を要請し、鎌倉幕府は恒明親王の即位を認めなかった。

1318年、花園天皇の次の大覚寺統天皇は尊治親王とし、

後醍醐天皇は邦良親王を皇太子に立て、直ぐに譲位する「中継ぎ」のつもりであった。

花園天皇は1318年、尊治皇太子に譲位した。

本来なら、後醍醐天皇は直ぐに邦良親王に皇位を譲らねばならなかった。

しかし、ズルズルと延びてしまった。

1326年邦良親王が死んでしまった。

後醍醐天皇即位後3年は父、後宇多法皇が院政を行った。

後宇多法皇はきつく遺言を残した。

大覚寺統の嫡流は後二条天皇の系統であるゆえ後醍醐天皇は自分の子を皇太子にしてはならぬと。

後二条天皇の皇子を皇太子に指名せよと。

後醍醐天皇は兄、後二条天皇の遺児である邦良親王を皇太子に指名していた。

自らは「中継ぎ」という立場をわきまえていた。

しかし、大覚寺統内は亀山法王の遺詔で後二条天皇の次の天皇は恒明親王であるという。

恒明親王は幼い頃、15年上の甥にあたる尊治親王と共に亀山法皇の寵愛を受けて育てられた。

亀山法王は後宇田上皇の父ではあるが末子の恒明親王を溺愛していた。

遺詔でその財産の多くは恒明親王に与えられた。

亀山法王の孫に当たる後二条天皇に対しては、

次の皇位は後二条天皇の子、邦良親王ではなく

亀山法王の末子の、恒明親王を立てるように命じていた。

後醍醐天皇は恒明親王か邦良親王か、

どっちに譲位しようか迷ってるうちに邦良親王が死んでしまったのである。

そもそも後醍醐天皇の先代、

持明院統の富仁親王は即位するとき、

皇太子は大覚寺統の誰にするかで迷った。

亀山法王は溺愛する恒明親王を押し後宇田上皇は邦良親王の前のワンポイントとして尊治親王を押した。

幕府は大覚寺統の分裂を招きかねない恒明親王の立太子には反対し、

1308年、後二条天皇が急死すると花園天皇即位と共に邦良親王(当時9歳)の成長までは、

中継ぎの天皇になるべき皇太子を尊治親王(当時20歳)とした。

1318年、後醍醐天皇(当時31歳)は中継ぎながら即位したが、

皇太子には邦良親王(当時19歳)とした。

しかし、1326年に邦良皇太子が薨去した(当時27歳)

後宇田上皇も2年前に薨去していた。

ゆえに次の皇太子争いは紛糾した。

持明院統は量仁親王擁立で固まったのに対し、

大覚寺統は

①「邦良親王」の子「康仁親王」(やすひとしんのう)を押す勢力。

②「邦良親王」の弟「邦省親王」(くにみしんのう)を押す勢力。

③「後醍醐天皇」の子「尊良親王」(たかよししんのう)を押す勢力。

④「亀山法王」の末子「恒明親王」(つねあきしんのう)を推す勢力。

に4分裂した。

「恒明親王」(つねあきしんのう)としては即位できるチャンスであったが、

「持明院統」の「量仁親王」(かずひとしんのう)が選ばれた。

「両統迭立」が守ろうとする「鎌倉幕府」の意向が強かったわけだが、

「亀山法王」の遺詔が無視された事実は大きかった。

「恒明親王」が不満を爆発させないように、

初めて「世襲親王家」という「特別待遇家」を「恒明親王」に用意した。

常に親王となれるよう親王宣下が世襲される家「世襲親王家」を用意したのだ。

まあつまり「利権」「既得権益」の走りである。

つまり優先的に天皇候補になれるという約束手形であった。

「後醍醐天皇」は不満を持っていた。

初めからわかっていた事ではあるが、

これでは自分の子を皇太子にする事はできない。

本当に「一代の主」で終わってしまう。

まず「両統迭立」を建前に皇位継承に口出しする「鎌倉幕府」を倒さねばならない。

そして、身内の「持明院統」や「大覚寺統・康仁派・邦省派」も倒さねばならなかった。

そこで、1331年、ついに「元弘の乱」を起こす。

しかし「後醍醐天皇」の倒幕計画は、側近「吉田定房」の密告により発覚し、

「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は身辺に危険が迫ったため京都脱出を決断、

「三種神器」を持って挙兵した。

はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山に籠城するが、

圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。

髪を乱し、服装も整わないまま、山中に潜んでいたところを発見されたとのことで、

先代の「花園院」(はなぞのいん)は「王家の恥」「一朝の恥辱」と『花園天皇宸記』に記している。

このとき「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は鎌倉幕府の取り調べに対し

「天魔の所為」なので、許してもらいたいと訴えたという。

鎌倉幕府は「後醍醐天皇」を廃位し、

皇太子「量仁親王」(かずひとしんのう)をそのまま践祚させた。

「光厳天皇」である。

皇太子には「康仁親王」(やすひとしんのう)が指名された。

「康仁親王」(やすひとしんのう)は「邦良親王」(くによししんのう)の子である。

「後二条天皇」(ごにじょうてんのう)の孫に当たる大覚寺統であった。

幕府は両統迭立を守った。

捕虜となった「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は「承久の乱」の先例に従って、

謀反人とされ隠岐島に流された。

この時期「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の

皇子「護良親王」(もりよししんのう)や

河内の「楠木正成」(くすのきまさしげ)、

播磨の「赤松則村」(あかまつのりむら)ら

反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。

このような情勢の中「後醍醐天皇」は

1333年「名和長年」ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し伯耆船上山で再び挙兵する。

これを追討するため幕府から派遣された「足利高氏」(尊氏)が、

逆に「後醍醐天皇」に味方して六波羅探題を攻略。

その直後に東国で挙兵した「新田義貞」が鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させた。

1333年に帰京した「後醍醐天皇」は「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」

と宣言し「建武の新政」を開始した。

まず「自らの退位」を否定し、

「光厳天皇」(こうごんてんのう)を廃位した。

「光厳朝」で行われた人事をすべて無効にし、

「両統迭立」も廃止して、自分の系統に一統した。

「大覚寺統」嫡流の「邦良親王」(くによししんのう)は廃太子、

自分の子「恒良親王」(つねよししんのう)を皇太子に立て、

「護良親王」を征夷大将軍とし、

「足利高氏」を戦功第一とし鎮守府将軍や参議などに任じた。

「新田義貞」を武者所長官とし、

「北畠顕家」(きたばたけあきいえ)を東北・北関東に配置(陸奥将軍府)。

「足利直義」(あしかがただよし)を鎌倉に配置した(鎌倉将軍府)。

大覚寺統「亀山法王」の遺言は守られず

「恒明親王」の皇位継承の話は完全無視された。

「恒明親王」(つねあきしんのう)は皇位に付くことも、皇太子になることもなく、

「亀山法皇」(かめやまほうおう)から伝領した遺領と御所にちなんで

「常盤井宮」(ときわいのみや)と称された。

「常盤井宮」は室町時代後期まで続いたが、

「大覚寺統」なのに「大覚寺統」に散々裏切られた「恒明親王」は、

何かと「持明院統」と「北朝」に賛同する言動が目に付いた。

「常盤井宮」は「亀山法皇」の遺詔を根拠に潜在的皇位継承の可能性を秘めた存在であったが、

現実には同家を擁立する政治勢力は存在しなかった。

「大覚寺統」(南朝)と「持明院統」(北朝)、

「後光厳流」と「崇光流」の対立バランサーで、

6代目以降は子孫が確認されていない。

「常盤井宮」は「世襲親王家」第一号だったが、

「恒明親王」(つねあきしんのう)への賠償のようなものであった。

つまり「世襲親王家」というのは、

大人の都合でできた産物であり、

日本の伝統ではないのである。

「世襲親王家」としては「常盤井宮」が最も早い例である。

「常盤井宮」は「亀山法皇」の末子で、同法皇の「遺詔」(ゆいしょう)により

「大覚寺統」の「正嫡」に指定されたが「遺詔」が実行されなかったため、

「恒明親王」(つねあきしんのう)を初代とし「世襲親王家」とした。

第6代「恒直王」まで「親王宣下」を受けたと思われる。



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