常盤井宮
昨今の皇位継承問題で、旧11宮家は全部、伏見宮系だということはかなり知られている。
更に伏見宮は元世襲親王家だったという事もある程度は知られている。
それでは、伏見宮は何番目に誕生した世襲親王家だったのか、というのはどうだろう。
室町時代に3番目に創設された、と答えられる人は少ない。
では、1番最初と2番目に創設された世襲親王家は何という名称だろう。
答えられる人は希だろう。
常磐井宮と木寺宮という。
鎌倉時代、最初の世襲親王家、常盤井宮が創設された。
初代は恒明親王(1303年ー1351年)。
創設の黒幕は亀山上皇。
恒明親王は大覚寺統の嫡流である。
恒明親王の説明には、
後醍醐天皇の解説が欠かせない。
後醍醐天皇は、後宇多天皇の第二皇子として生まれた。
第一皇子は後二条天皇である。
1308年、後二条天皇が薨去された。
皇太子の花園天皇が即位する。
この時、尊治親王が皇太子に立てられた。
しかし、尊治親王は花園天皇の実子ではなかった。
尊治親王は後宇多天皇の実子であった。
本来ならば皇太子は天皇の嫡男が立てられるのだが、この時期、朝廷は持明院統と大覚寺統で争っていたため、両統迭立という制度がとられていた。
大覚寺統の嫡流である後二条天皇には、嫡男、邦良親王というのがいた。
しかし、後二条天皇の後には、花園天皇がなり、
花園天皇の皇太子には尊治親王がなった。
ご想像のように、後二条天皇は大覚寺統、花園天皇は持明院統、であった。
邦良親王は病弱な上まだ9歳だったので、
「中継ぎ」という形で、尊治親王が立太子されたのだ。
しかし、10年後、
花園天皇の次を巡って大覚寺統内で分裂が起こった。
後二条天皇の祖父、亀山法王が遺言で、後二条天皇の次は、
自分の末子、恒明親王を即位させよと残したのだ。
当時は両統迭立で大覚寺統と持明院統が交互に即位する形がとられていたゆえ、
持明院統の花園天皇の次は、大覚寺統が天皇に即位する番であった。
亀山法王の実子である後宇田上皇は、
父の遺言を実行しては大覚寺統が分裂すると鎌倉幕府に協力を要請し、
鎌倉幕府は恒明親王の即位を認めず、
1318年、花園天皇の次は後二条天皇の嫡子、邦良親王とし、
まだ幼いゆえ中継ぎに尊治親王を皇太子とするとなった。
ただし、尊治皇太子は皇位に付いたら、邦良親王を皇太子に立てるように約束させられていた。
ゆえに、後醍醐天皇は、即位すると直ぐに邦良親王に皇位を譲らねばならなかった。
しかし、なぜか、ズルズルと延びてしまった。
1326年、邦良親王が死んでしまった。
1324年薨去した後宇多法皇は
大覚寺統の嫡流は、後二条天皇の系統であるゆえ、
後醍醐天皇は自分の子を皇太子にしてはならぬ、ときつく遺言を残したゆえ、
後醍醐天皇は、後二条天皇の遺児である邦良親王を皇太子に指名したのだが、
大覚寺統内では、亀山上皇のせいで、とんでもない事が起こっていた。
亀山法王の遺詔で後二条天皇の次は恒明親王にすべきという勢力がい育っていたのだ。
恒明親王は幼い頃、
15年上の甥にあたる尊治親王と共に亀山法皇の寵愛を受けて育てられたゆえ、後醍醐天皇は恒明親王にも親近感を持っていた。
亀山法王は後宇田上皇の実の父ではあるが、後宇多天皇にはさほど愛情を示さず、自分の末子の恒明親王を溺愛していた。
遺詔でその意思を鮮明にする。
亀山上皇の財産の多くは恒明親王に与えられた。
亀山法王の孫に当たる後二条天皇に対しては、
次の皇位は後二条天皇の子、邦良親王ではなく
恒明親王を立てるように命じた。
後醍醐天皇は恒明親王を差し置いて、このまま邦良親王に譲位してよいものか、
迷ってるうちに、邦良親王が死んでしまったのである。
そもそも後醍醐天皇の先代、花園天皇も持明院統ゆえ、即位するとき、
皇太子は大覚寺統の誰にするかで迷って尊治親王に決めた。
亀山法王は溺愛する恒明親王を押していたのだ。
後宇田上皇は邦良親王の前のワンポイントとして尊治親王を皇太子に据えることに成功したが、
幕府は大覚寺統の分裂を招きかねない恒明親王の立太子には反対の立場であった、
1308年、後二条天皇が急死すると花園天皇即位と共に邦良親王(当時9歳)の成長までは、
中継ぎの天皇になるべき皇太子を尊治親王(当時20歳)とした。
1318年、後醍醐天皇(当時31歳)は中継ぎながら即位したが、
皇太子は恒明親王(当時15歳)でなく邦良親王(当時19歳)とした。
しかし、1326年に邦良皇太子が薨去した(当時27歳)
後宇田上皇も2年前に薨去していた。
ゆえに次の皇太子争いで大覚寺統は紛糾した。
持明院統は量仁親王擁立で固まったのに対し、
大覚寺統は
①「邦良親王」の子「康仁親王」を押す勢力。
②「邦良親王」の弟「邦省親王」を押す勢力。
③「後醍醐天皇」の子「尊良親王」を押す勢力。
④「亀山法王」の末子「恒明親王」を推す勢力。
に4分裂した。
結局、邦良親王の子、康仁が皇太子に選ばれた。
鎌倉幕府の意向が強かったわけだが、
亀山法王の遺詔が無視された事実は大きかった。
恒明親王が不満を爆発させないように、
初めて世襲親王家という利権を恒明親王に用意した。
つまり天皇家の嗣子が途切れた場合、
恒明親王の子孫が優先的に天皇になれる約束手形であった。
この頃の後醍醐天皇の心境はどうであったのだろう。
自分の子を皇太子にする事はできない事は、
即位前からわかっていたことだ。
「一代の主」で終わってしまう事は覚悟の上の即位だった。
しかし、いくら亀山上皇の遺言とはいえ、大覚寺統の嫡流は後二条天皇の実子の方である。
それが、最終的には不成立だったとはいえ、嫡流の邦良親王を差し置いて、康仁親王があと一歩で立太子されるところであった。
つまり、力さえあれば、自分、後醍醐天皇の実子を立太子させることも無理ではないことに気づいたのではないだろうか。
この気付きが、後醍醐天皇の鎌倉倒幕につながる。
まず「両統迭立」を建前に、皇位継承に口出しする「鎌倉幕府」を倒さねばならない。
そして、持明院統、大覚寺統・康仁派・邦省派も倒さねばならなかった。
そこで、1331年、元弘の乱を起こす。
しかし「後醍醐天皇」の倒幕計画は、側近「吉田定房」の密告により発覚し、
「後醍醐天皇」は身辺に危険が迫ったため京都脱出を決断、
「三種神器」を持って挙兵した。
はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山に籠城するが、
圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。
髪を乱し、服装も整わないまま、山中に潜んでいたところを発見されたとのことで、
先代の「花園院」は「王家の恥」「一朝の恥辱」と『花園天皇宸記』に記している。
このとき「後醍醐天皇」は鎌倉幕府の取り調べに対し
「天魔の所為」なので許してもらいたいと訴えたという。
鎌倉幕府は後醍醐天皇を廃位し、
持明院統の皇太子「量仁親王」をそのまま践祚させた。
「光厳天皇」である。
皇太子には邦良親王の子、
すなわち後二条天皇の孫である大覚寺統の康仁親王が立てられた。
捕虜となった後醍醐天皇は「承久の乱」の先例に従って、
謀反人とされ隠岐島に流された。
この時期「後醍醐天皇」の皇子「護良親王」や
河内の楠木正成、播磨の赤松則村ら
反幕勢力(悪党)が各地で活動していた。
このような情勢の中「後醍醐天皇」は
1333年「名和長年」ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し伯耆船上山で再び挙兵する。
これを追討するため幕府から派遣された「足利高氏」(尊氏)が、
逆に「後醍醐天皇」に味方して六波羅探題を攻略。
その直後に東国で挙兵した新田義貞が鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させた。
1333年に帰京した後醍醐天皇は
「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」
と宣言し「建武の新政」を開始した。
まず自らの退位を否定し、光厳天皇を廃位した。
光厳朝で行われた人事をすべて無効にし、
両統迭立も廃止して、自分の系統に一統した。
大覚寺統嫡流の康仁皇太子は廃太子、
自分の子「恒良親王」を皇太子に立て、
護良親王を征夷大将軍とし、
足利高氏を戦功第一とし鎮守府将軍や参議などに任じた。
新田義貞を武者所長官とし、
北畠顕家を東北・北関東に配置(陸奥将軍府)。
足利直義を鎌倉に配置した(鎌倉将軍府)。
大覚寺統「亀山法王」の遺言は守られず
恒明親王の皇位継承の話は無視され、恒明親王は皇位に付くことも、皇太子になることもなく、
亀山法皇から伝領した遺領と御所にちなんで常盤井宮と称された。
常盤井宮は室町時代後期まで続いたが、
大覚寺統なのに、大覚寺統の後醍醐天皇に裏切られた恒明親王は、
何かと持明院統と北朝に賛同した。
常盤井宮は亀山法皇の遺詔を根拠に、潜在的皇位継承の可能性を秘めた存在であったが、
現実には同家を擁立する政治勢力は存在しなかった。
「大覚寺統」(南朝)と「持明院統」(北朝)、
「後光厳流」と「崇光流」の対立バランサーで、
6代目以降は子孫が確認されていない。
「常盤井宮」は「世襲親王家」第一号だったが、
「恒明親王」への賠償であり、大人の都合の産物であった。
世襲親王家は日本の伝統ではないのである。




