6類「壬生家」③狭穂彦王(さほひこのみこ)の叛乱
華族類別録 第6類皇別
「小槻宿禰」(おづきのすくね)
「垂仁天皇皇子於知別命後今雄裔」(すいにんてんのう みこ おちのわけのみこと のちのいまおのすえ)
「従三位壬生輔世官務」(じゅうさんい みぶすけよ かんむ)
・・・の続きであるが、
11代垂仁天皇の皇子の1人が「於知別命」(おちわけのみこと)であり、
「於知別命」(おちわけのみこと)の子孫が「小槻氏」(おづきし)である。
そのことは「新撰姓氏録」の記述が根拠であり、信憑性があるということなのであろう。
そして「壬生氏」は「小槻氏」の後裔として明治政府から皇別華族6類と認定された。
しかしながら、誠に持って、この「華族類別録」というものは、根拠が『新撰姓氏録』が大部分なのは、なんともあやふやなものである。
それでは「於知別命」(おちわけのみこと)の父「垂仁天皇」(すいにんてんのう)についての事績を見ていこう。
第11代「垂仁天皇」(すいにんてんのう)は、
10代「崇神天皇」(すじんてんのう)の第三皇子である。
生母は皇后の「御間城姫命」(みまきひめのみこと)、
有名な「大彦命」(おおひこのみこと)(8代孝元天皇の皇子)の娘である。
「垂仁天皇」(すいにんてんのう)の兄は、
前述の「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)である。
「垂仁天皇」(すいにんてんのう)は、
兄「豊城入彦命」(とよきいりひこのみこと)をこえて、
24才で皇太子に立てられた。
この人選には逸話がある。
『日本書紀』によると、崇神天皇48年に祟神天皇が、
豊城命(豊城入彦命)(とよきいりひこのみこと)と、
活目尊(後の垂仁天皇)に勅して、
共に慈愛のある子であり、
どちらを後継者とするか決めがたいため、
それぞれの見る夢で判断すると伝えた。
「豊城命」(とよきのみこと)は、
「御諸山(三輪山)に登り、東に向かって槍や刀を振り回す夢を見た」と答え、
「活目尊」(いくめのみこと)は、
「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。
その結果、
弟の「活目尊」(いくめのみこと)は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、
「豊城命」(いりきのみこと)は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。
「垂仁天皇」(すいにんてんのう)は、
父帝が崩御した翌年の1月2日に即位。
即位2年に「彦坐王」(ひこいわすのみこ)(天皇の伯父)の娘、
「狭穂姫命」(さほひめのみこと)を皇后とした。
この「狭穂姫」(さほひめ)についても逸話が残っている。
即位5年、皇后兄の「狭穂彦王」(さほひこのみこ)の叛乱である。
※「狭穂彦王」(さほひこのみこ)の叛乱
「垂仁天皇」(すいにんてんのう)は即位2年「狭穂姫」(さほひめ)を立后した。
即位5年、天皇の従弟にあたる「狭穂彦」(さほひこ)が、妹の皇后「狭穂姫」(さほひめ)を唆して、
天皇を暗殺しようとし「狭穂姫」(さほひめ)に「夫と兄のどちらが愛しいか」と問うた。
「狭穂姫」(さほひめ)は「兄」と答えたため、兄「狭穂彦」より短刀を渡され、
寝ている天皇を刺せと告げられた。
断ることができなかった皇后は、もう少しというところでどうしても短刀を振り下ろすことができず、
垂仁天皇にすべてを打ち明けた。
天皇は「狭穂彦」(さほひこ)を討伐することにしたが、
兄を見捨てられない「狭穂姫」(さほひめ)は、自分が生んだ「誉津別命」(ほむつわけのみこと)を連れて
「狭穂彦」(さほひこ)の元に走った。
長らく攻めあぐねた天皇がついに「狭穂彦」(さほひこ)の稲城に火をつけると、
「狭穂姫」(さほひめ)が飛び出してきた。
しかし皇后は「誉津別命」(ほむつわけのみこと)だけを預けて燃える城の中に戻ってしまい、
そのまま兄と共に焼け死んでしまった。
『古事記』では「狭穂彦」(さほひこ)の元に走った皇后は皇子を妊娠しており、
稲城で生まれた皇子を渡しに外へ出てきたとある。
天皇は屈強な兵士を差し向けて皇后を奪還しようとするが失敗。
諦めきれない天皇は子の名付けや育て方、
後任の皇后について尋ねて時間稼ぎをしたがついに話すことも無くなり泣く泣く稲城に火を放ち、
皇后は兄と共に焼死した。
即位15年2月「丹波道主王」(たんばのみちぬしのみこと)の娘
「日葉酢媛命」(ひばすひめのみこと)を新たな皇后とした。
この時も、逸話がある。
『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、
その遺志により、同15年2月甲子(10日)に丹波(今の北近畿)から妹たちとともに後宮に迎えられた。
しかし、末娘の「竹野媛」(たかのひめ)だけは醜かったので故郷に返された。
(『古事記』では歌凝比売と円野比売の2人)
大いに恥じた「竹野媛」(たかのひめ)は葛野で輿から投身自殺してしまった。
(『古事記』では円野比売。相楽で自殺未遂、弟国で自殺)
「日葉酢媛命」との間に、
「大足彦尊」(おおたらしひこのみこと)(景行天皇)
「倭姫命」(やまとひめのみこと)らを得た。
即位25年「五大夫」を集めて祭祀の振興を誓い、
伊勢神宮、武器奉納、相撲、埴輪、鳥飼といった様々な文化の発祥に関わったとされる。
即位37年「大足彦尊」(おおたらしひこのみこと)を立太子。
即位99年に140歳で崩御、『古事記』に153歳。
活目入彦五十狭茅天皇-『日本書紀』
活目天皇-『日本書紀』
活目尊-『日本書紀』
伊久米伊理毘古伊佐知命-『古事記』
伊久米天皇-『常陸国風土記』
生目天皇-『令集解』所引「古記」
伊久牟尼利比古大王-『上宮記』
漢風諡号である「垂仁天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
即位25年、武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日の五大夫を集めて先皇(崇神天皇)の偉業を称え、先皇と同様に神を祀ることを誓った。
同年、天照大神の祭祀を日葉酢媛命が生んだ皇女の倭姫命に託した。
宇陀、近江、美濃と周った倭姫命は最終的に伊勢に落ち着き伊勢神宮を建立した(元伊勢伝承)。
即位27年、初めて屯倉(天皇の直轄地)を作った。
また諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めた。
即位35年、子の五十瓊敷入彦命に河内国の高石池や茅渟池を始め諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。
即位39年、子の五十瓊敷入彦命が千本の剣を作り石上神宮に納めたことをきっかけに同神宮の神宝を掌らせる。
即位88年、天日槍の曾孫の但馬清彦に但馬の神宝を献上させた。
現在、その神宝は出石神社で祭られている。
即位99年、崩御。
『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとある。
この干支は『書紀』の庚午年没と1年異なるが『古事記』では崇神天皇没の戊寅年の53年後が辛未のため一致している。
狭穂彦王の叛乱については、『古事記』中巻の垂仁天皇記と『日本書紀』垂仁天皇4・5年条において語られている。
特に『古事記』中巻では倭建命の説話と共に叙情的説話として同書中の白眉とも評され、
また同じく同母兄妹の悲恋を語る下巻の木梨之軽王と軽大郎女の説話と共に文学性に富む美しい物語とも評されている。
『古事記』におけるあらすじがもっとも詳しいので以下に記す。
名前の表記も同書に従う。
狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。
ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。
妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。
目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。
反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。
天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固かった。
髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。
天皇が「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねると、
姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と申し上げた。
また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」と尋ねると、
姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王
「丹波道主命」(たんばのみちぬしのみこと)に兄比売と弟比売という姉妹がいます。
彼女らは忠誠な民です。
故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げた。
そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。




