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裏切り者 12

「……はぁ」

 トンフィーは、ズルズルとドアを背にして座り込む。しばらく背中を丸めてじっとしている。そうしているうちに頭の中に女の言葉が蘇る。

 ――一人ぼっちになっちまうよ。

(母さん……)

 トンフィーは顔を上げ、ゆっくり立ち上がった。

(ずいぶん静かだな)

 ドアが開いた音に気付かなかったのかと、首を傾げながら家の奥に向かう。開け放されたドアからソフィーの寝ているベッドが見える。大分痩せてしまったせいで、布団はほとんど膨らんでいない。

「……母さん?」

 トンフィーはドアの手前から小さく呼びかける。返事が無い。鼓動が早くなる。

「ね、母さ――!」

 小さく膨らんだ布団の奥にソフィーの長く波打つ髪が見える。どうやらうつ伏せになっているらしく顔は見えない。そして――伏せている顔の辺りの白いシーツが真っ赤に染まっていた。

「母さん!」

 トンフィーは駆け寄り、ソフィーの肩に手をかけた。するとその手が大きく上下に揺れて、激しいソフィーの息づかいを感じた。

「母さん――どうしたの母さん。大丈夫かい……」

 半ば泣きそうになりなが呼びかけると、ソフィーがほんの少しだけこちらに顔を向けた。

「大丈夫だよ……トンフィー……」

 消え入りそうな小さな声ではあったが、一応返事をした事にトンフィーはわずかにホッとした。顔を覗き込むと、ソフィーの口の周りが赤く染まっているのが見えた。

「血を吐いてしまったの? こんなに――」

 実は前にも血を吐いた事があった。しかし、その時は手の平にほんの少しだけだったのだ。今回の量は尋常じゃないし、様子もかなりおかしい。トンフィーの鼓動が更に高鳴ってきた。

「母さん……。どうしよう……僕……僕、お医者様を呼んで来るよ」

 トンフィーが熱に浮かされたように呟いて、身を翻したその時、細い指がその小さな手をとらえた。

「トンフィー……お医者様は……もう、いいよ……」

「で、でも――」

「上を……向かせて、おくれ」

 もう自分の力では体を動かす事も出来ないのだと知り、トンフィーは驚愕して母親を見る。涙がこみ上げてくるのを、唇を強く噛んで耐えた。そうして、ゆっくりとその体を上向きに寝かせ直した。

「トンフィー……」「ちょっと待ってて――」

 ソフィーが何か話し出そうとするのを制して、トンフィーは急いで部屋を出て行く。

 ソフィーは目だけ動かしてトンフィーの消えたドアを見つめた。しかしその瞳には、もうぼんやりとしか周りの景色は映らなかった。先程覗き込んできた息子の顔も霞んで良くは見えなかった。ソフィーは瞼を閉じた。

 ――もう、間もなくだな。

 とうの昔に自らの死を悟ってはいた。だが、ソフィーは一日でも長く生きたかった。それはひとえに、自分がいなくなれば一人残される事になってしまう息子の事を思ってだ。

 ――だが、もう限界だろう。

 せめて、もう少し大人になるまでと思っていた。今の幼い心では伝えられない事がたくさんあった。

(――もう少し、そばにいてやりたかったのに)

 そう考えて、ソフィーの頭の中に一人の女性の姿が思い浮かんだ。

 ――そうだ。そういえば……。

(昔は、こんな風に考える事は出来なかった)

 

 トキアの赤軍で部隊長をしていたソフィーは、青暗戦争の最中に、自分と同じように兵士をしていた夫を失い、自らも大きな傷を受けてしまった。そうして戦火の中、一人息子を抱えて命からがらハルバルートの都を逃げ出したのだ。長い旅の果て、同じように逃げ延びた人々と共に、ようやく暗黒王の支配の及ばぬこの町に辿り着いた。

 だが、やっと手に入れた母子二人の暮らしは、決して楽なものにはならなかった。

 結局戦いで受けた傷は完全には癒えず、戦う事はおろか、ソフィーは歩く事さえままならない体になってしまったのだ。

 青暗戦争で逃げ延びた人々は、密かに反乱軍となりレジスタンスと名乗って結束していた為、その者達がソフィーとトンフィーの事を気付かって交代に面倒を見てくれた。しかし生活の全てを補って貰える訳も無いし、いつまでも他人に甘えてはいられない。必然的に、家事のほとんどを幼いトンフィーがやらざるをえなくなってしまった。トンフィーは不満など全く言わなかったが、ソフィーはずっと苦しかった。幼い我が子の負担になっている自分が情けなく、死にたいとさえ思っていた。

 そんな風に暗い気持ちで生きながら、トンフィーが五才になった頃、共に戦場を駆け抜けた親友がひょっこりソフィーの前に現れたのだ。久々に会えた彼女を前に、ソフィーはついつい今まで溜め込んでいた泣き言をいっぺんにぶちまけてしまった。

「私は、息子のお荷物なんだよ。死んだ方が良いのではないか……」

 すると、彼女は昔と変わらぬ、澄んだ青い目でソフィーを見つめ、こう言ったのだ。

「お前のように、優しくて真っ直ぐな母親が産んで育てた息子なら、母親を負担に感じて死んで欲しいなどとは思わないだろう。もし、そんな風に思うような息子なら、うんと長生きして逆に負担をかけて根性を鍛え直してやればいい。それでも、自らが惨めで――可哀想で死にたいと思いながら、今のように暗い顔で生きるくらいなら――死ね、ソフィー」

 言葉は冷たいようだが、その表情は優しく、まるで母のようであった。

「お前が、生きているのが楽しいと思えば、トンフィーも同じように楽しいだろうし、暗い気持ちでいれば、トンフィーもそうなるだろう。思いとは伝染するものだからな」

 ソフィーは俯いた。

 ――トンフィーにそんな暗い気持ちを移すくらいなら、死んでしまえと言うことか……。

 確かに、ソフィーはトンフィーの事を思って死にたいなどと言いながら、決して彼の為にはならない事をしていたのかも知れない。

 恥じいって俯いているソフィーを見つめて、彼女はふと笑った。

「母親になった事もない私が、偉そうな事を言ったな」

「――そんな事ないよ」ソフィーは顔を上げ彼女の柔らかな瞳を見つめた。そしてようやくとニッコリ笑った。「おかげで目が覚めたよ! ……ありがとう」

 心からソフィーはそう言えた。そんなソフィーを見て、彼女も珍しくニッコリ笑ったものだ。


(元気でいるかな)

 目を瞑ると、鮮やかに甦る。彼女の――風に揺れる赤い髪。いかなる敵と出会おうとも、どんなに厳しい戦局に陥ろうとも、揺ぐことのない凛とした背中。ソフィーも周りの者もその背中に幾度となく励まされたものだ。

(結局、あの日も彼女は私を励ましに来たんだね……)

「母さん……」

 愛する我が子の声に物思いから覚め、ソフィーはゆっくりと目を開いた。

 ――相変わらず世界はぼやけていた。

 しかし、ほんわりと温かな柔らかい布が口元に当たるのを感じて、トンフィーが、血のついてしまった自分の口の回りを拭ってくれているのだという事が分かった。水で濡らした布ではなく、わざわざ温かい湯に浸けてきてくれた息子の優しさに、ソフィーは思わず涙を流した。

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