Note:38 起死回生へ
思えば私は、物心ついたころから自己犠牲を厭わない性格であった。
持っていた玩具を欲しがる男子がいれば貸し出し、食べていたお菓子をねだる女子がいれば分け与える。自分が損をしようとも、それで争いが回避できるのならば本望であると、そう考えて生きてきた。
そんな私を見て、まるで仏様のようねと、誰かの親は嘲笑にも似た言葉を投げかけた。当時の私にはその意味が分からず微笑むだけであったが、一方で私の母親は苦々しい表情を浮かべていたと記憶している。
母親が不愉快に思うのも当然の話だ。自分の子どもが、他人に良いように扱われている姿を見て感心する親など、世界中を探してもなかなか見つからないだろう。だが、彼女はその不快感を言葉にすることが出来ず、ただ苦痛に耐えるのみであった。
何故ならば、私が笑っていたからなのである。自分の物を奪われても、平然と白い歯を零していたのだ。
言っておくが、私はマゾヒストでもなければ、敬虔な仏教徒でもないし、社会主義を崇拝している訳でもない。そもそも幼児期の人間が、このような思想や性癖を持ち合わせるはずがない。
単純に、私は争いが嫌いだった。嫌悪していた。周囲の目も気にせず感情同士をぶつけ合う姿勢が、とても不快だったのだ。
ああ、ちなみに私がそのような思想を抱くようになった切っ掛けは、特に変わったものではない。現代において、子どもがそのような歪んだ成長をする理由など、ありふれていて今さら語る価値など皆無であろう。
別に同情を誘うつもりはない。同情をされたところで、幸福な日々が手に入るものでもあるまい。
それ故に、私は異常なほど聞き分けの良い子どもへと成長したのである。自己主張もせず、何をされても笑顔で返す……そんな幼少期を過ごしていた。
そして、分かりやすいことに私のような子どもは、往々にしていじめを受けやすい。それも、年を経るごとにその苛烈さは増してゆくばかりなのである。
ある日は上履きを隠され、またある日は机ごと窓から捨てられ……それでも私は、笑顔を絶やさなかった。ここで怒りを、憎しみを露わにしてしまえば、争いが起きてしまう。みんなが不幸になるのなら、私一人が不幸であればいい。
人間という種族に産まれてしまった、この私が悪いのだと、そう思っていた。
ただし、そのような生活が続いてくると、それと同時に私は人間という種族自体への嫌悪を抱くようになっていた。憎み、憎まれ……どこまでも汚い精神性に吐き気を催し、中学二年生になるころには、自殺も選択肢に入れていた。
そんな私を救ってくれたのが、科学であった。
救うとは言っても、科学系の本が悲惨な日常から目を逸らさせ空想の世界へと誘ってくれた……というような陳腐なものではない。科学は、直接私をいじめの手から救ってくれたのである。
どういうことかというと、私は本で学んだ科学を用いて、いじめっ子たちに人体実験を仕掛けたのである。それも、私の経歴に一切傷がつかぬよう、巧妙に仕組んで。
具体的に何をしたのかは言えないが、今の私がそれを行なえば、ごく当たり前のようにお縄になる、とだけ言っておこう。しかし、今でもあの時の光景を夢に見るほど、脳に刻み込まれている。無論、良い記憶として、だ。
……誤解の無いように言っておくと、さすがに入院治療が必要となるような怪我を負わせてはいない。指紋が無くなるとか、永遠に消えない染料が全身に付いたとか、その程度のものである。
さて……話が逸れてしまったが、そういう訳ですっかり人間に愛想を尽かした私は科学の面白さに惹かれ、そのまま立派に成長してあの灰色の世界を生きることとなったのだ。その後の経緯については、語るまでもなかろう。
そんな私を……人間に絶望し、科学すらも嫌いになりかけていた私を、救ってくれたのはアスナだった。
これほどまでに歪曲した精神を有する私という存在を頼ってくれた。外見などでは無く、純粋に私の持つ能力を評価してくれたのだ。
嬉しかった。心が躍ったのは、本当に何年ぶりだろうかと思ったほどであった。だから私は、この娘のために全力で戦おうと心に決めたのだ。
そして、今。本当の意味でアスナの役に立つ絶好の機会が訪れたと言える。グレイスティーム王国にとって、私ほど美味しいエサは無い。そんな私が囮になれば、暴徒たちと交渉し国を一つにまとめる時間など幾らでも捻出できるだろう。
場合によっては、人質となる代わりにこの国へ手を出さぬよう、王国と交渉するのも手だ。交渉は格上相手に行なうものではないのだが、私という存在であれば、王国側も無視できないはずである。
完璧だ。この作戦ならば、アスナの目的も果たすことが出来るし、私の目的も達成できる。一緒に喜びを分かち合えないのは非常に残念だ。しかし、これ以上は高望み、というものだ。
「……」
「リナ、さん……?」
アスナの純朴な瞳が私を捉える。彼女の瞳に映った私は、深海にも似た深い青に包まれ、どこか無限の牢獄に囚われているかのようであった。
一瞬だけ、躊躇った。本当にこの選択が最良なのか、という疑念が過ったのだ。アスナや、みんなと共に居たいという欲望が、私の思考を鈍らせる。
「……いや、でも……」
ここで悩んだところで、選択肢は限られている。むしろ、悩めば悩むほど時間だけが浪費され、徐々にそれすらも奪われてしまう。一刻の猶予も無いのだ、こんなところに私心を挟むべきではない。
もう、腹を決めよう。この国のため、アスナのため……私は、この身を差し出そうではないか。
「……みんな、聞いて――――」
「みんな、聞いて」
ようやく絞り出した私の声を、アナの声がかき消した。不意打ちを喰らい、私は紡ごうとした言葉を喉の奥へと押し込む。
「何かね、アナ殿」
「殿、は要りませんよ、リト様。……さて、私に一つ妙案がございます。うまくゆけば、この事態を一気に打破できる策、かと」
「なんだって?」
「なんですって?」
突拍子もない発言に、二人は呆けたままアナを凝視する。完全に先を越されてしまった私は、ただ彼女の発言を黙って聞くほかになかった。
「私がミリモスティーム教会の司祭である、ということはご存知ですよね」
「あ、ああ。確かに昨日そう言っていたな。だが、それが何だというのだ」
「教会を通じて王国へ偽の情報を流す、というのは如何でしょうか。内容は、そうですね……ドルテが造反を企てている、ならば現実味もあろうかと」
「は?」
私を含め、三人が同時に呆れたような声を漏らす。そのような情報を流したところで、出所がただの司祭では話にならない。あのエグアレンのような人間であるならばともかく、辺境の地で司祭をしていたアナの発言に、それほどの影響力があるとは到底思えないのだ。
溜息交じりに、リトはアナへ厳しい視線を送る。
「正気とは思えんな。ドルテの造反、という時点で眉唾物であるというのに、お前がその情報を流したところで王国側が真に受けるなど……」
「おや、先ほど申し上げたはずですが。私はミリモスティーム教会の司祭である、と」
「む……?」
困惑する私たちの様子を全く気にする素振りも見せず、アナは淡々と話を続ける。
「どうやら、王国側の情報はまるで得られていないようですね。まあ、無理もありませんけど」
「ど、どういうことですの? ミリモスティーム教会の司祭には、それほどにも強い権限が与えられているのですか?」
「ええ、その通り」
冗談を言っているような目付きではない。どうやら、アナの話は本当であるようだ。
宗教団体が時の権力者と結びつく、というのは割と普通のことである。私の暮らしていた時代でも、宗教国家というものすら存在していたくらいなのだ。
女神リンが強大な力を振るっていたこの世界であれば尚更であろう。ミリモスティーム教会自体が、王国の基盤を支えているといっても過言ではない。
だが、一司祭にそこまでの権限があるというのは、さすがに飛躍し過ぎている。確か、王国には騎士団も存在しているのだから、軍部をまとめる存在もいて然るべきであろう。オザグレルという男も、確か少将という肩書であったはずであるし、必然的に大将だとか、そういう階級の人間がいるはずだ。
だとすれば、他国への侵略行為においてはその方面の人間たちが指揮を執るはずである。幾ら教会の人間が頭脳派であっても、戦事については素人も同然だ。軍の上層部が、そんな人間の意見を真に受けるなど有り得ない。
あまり考えたくは無かったが……そうなると、一つの推測が成り立つ。ミリモスティーム教会自体もそうだが、それ以上にアナ自身に、何か大きな秘密がある、ということだ。
考えていても仕方がない。ここは、素直に彼女へと問いかけるしか道は無い。
「……アナ、聞いてもいいかな。そこまで自信を持っているからには、何か秘密にしていたことがあるんだよね。それも、アナ自身に関する重要な秘密が」
「あはは、やっぱりリンって頭が良いよね。……そう、これは王国内でも重大な機密事項。多分、国民の多くは知らないんじゃないかな」
軽く苦笑いを浮かべた後、アナは静かに目を瞑ると、意を決したようにその目に強い光を灯し、私たちへと向ける。
「私たちミリモスティーム教会の司祭は、一種の特殊部隊なの。メルファラン宰相が作り上げた、諜報活動に長けた隠密集団の一人……それが、私の本当の姿」
「なんですって……!」
「そう、か……」
そういうこと、か。諜報員からの情報であれば、王国の上層部も耳を貸すであろう。しかも、幹部クラスである宰相の子飼いともなれば、その信頼度は桁違いである。これは、なかなか有効な策だと言える。
しかし、何だろうか……アナの発言が妙に引っかかる。どうしてだろう、何かちょっとした違和感があるように思えるのだが……。
「成程、先ほどの戦いで感じた妙な感覚の原因は、それであったか」
思案を続ける私の横で、じっくりと自らの手を見つめたまま、ポツリとリトが呟く。
「妙、と言いますと?」
「……いや、何でもない。済まないな、話を続けてくれ」
「はあ……」
首を捻るアナとアスナであったが、私にだけは、リトの考えが理解できた。恐らく、エグアレンと剣を交えた時の感覚と、アナの戦いにおける雰囲気が似通っていたのであろう。それは、刃を向けられていない私でも何となく感じるものがあった。
余程、その隠密集団にはしっかりとした教育が施されているのだろう。戦い方に、それが如実に反映されているのだ。
だが、エグアレンがこの街に現れたことは、今語るべきではない。徒に不安を煽ってしまえば、アスナの精神が非常に心配だ。
「さてと、話を戻しますが……私が王国側へその情報を流せば、恐らくは数日、最低でも二、三日は稼げるのではないか、と。王国としてはドルテに裏切られては困るでしょうし、慎重を期することになろうかと」
「ふむ……確かに、侵攻の足掛かりとなるグラヴィール家の協力が無くなれば、兵員を増量しなければならなくなる。すでに二方面抗争を続けている王国とすれば、痛いな」
「ええ。その間に私たちは治癒ポーションの増産を行ない、暴徒たちと交渉をして平和的に首都を奪還する……どうでしょう」
私をエサにする策より確実性に劣るし賭けの部分も大きいが、試す価値はあるだろう。万が一これが失敗に終われば、その時は私が犠牲になるしかあるまい。
「……よし、その策で行くとしよう。早速会議を開き、兵士長たちを集めて指針を示そうではないか。アスナ様も、それでよろしいですか?」
「ええ、もちろん。でも、三人とも少し休んでからの方が良いと思うの。どうせポーションの製造開始は夕刻になる予定ですし、きちんと身を休めるのも重要、でしょう?」
「ははは、まったくその通りです。……では、昼食の後に」
「ええ」
そして、陽の光が差し込み始めた中庭を抜け、私たちは城内へと戻ってゆく。アスナとリトが伝令へと仔細を説明する最中、私はアナへと問いかけた。どうしても一つ、気になる点があったのだ。
「本当に良いの? その……自分の国を裏切ることになるんだよ?」
「……まあ、あまり気持ちの良いものじゃないけどさ。でも、こんな仕事から早く足を洗いたいって思ってたし。それに……」
物悲しそうに俯くと、軽く息を吐いたアナは私にも聞こえないような声量で囁く。
「止めなくちゃ。あんな悲しい化物、もう……」
「アナ?」
「……ううん、なんでも。とにかく今は、アスナたちを守らないとね! そうしなきゃ、ずっと無職のままになっちゃうし!」
「あはは、それもそうだね」
今はとにかく、先のことを考えるよりも生き残ること……それが最優先だ。ならば、最善を尽くすしかない。アナにはアナの、私には私の為すべきことがある。一つ一つ、確実に積み重ねていこう。
一つだけ申し上げますと、『あの部分』は誤字ではありません。




