Note:10 準備完了。打倒、魔法。
私はドン引きした。
ああ、稚拙な表現となってしまったことは深く詫びる。しかし、そうとしか表現できなかったのだ。どうか寛大な心で受けて止めていただきたい。
何が私にそこまでさせたのか。ほんの数分前、あの希望に満ち溢れた私の心へ急ブレーキをかけさせたのは、一体何だというのか。
それはたった今、目の前に広がっているこの光景が原因なのである。
あの決意の後、帰宅した私たちを出迎えたのは、よく顔の見知った一人の男……そう、莫であった。しかし出迎えたといっても、行方知れずとなっていた護衛対象を捕捉した時のような、歓喜や安堵に包まれたものではない。そして当然、怒りでもない。
「ああ、おかえり」
……それだけである。
自らの命よりも優先すべき人物が不在だったというのにも拘わらず、そいつはその一言で軽く流したのである。しかもあろうことか、優雅に昼食すら摂っていたのだ。
鍋底に少しだけ余っていた、朝と同じスープ。それに石のように硬い昔ながらのパン。言うまでもなく、私たちの分の用意はない。
「ええ……?」
私の隣にいるアスナも、さすがに呆然としている。それなりに長い付き合いだと思われる彼女ですら、こうして唖然とさせてしまうのだから、ある意味で彼は天才とも言えようか。
問題なのは、彼がこの行動に及んだ意図である。ただ空腹だったにしては、あまりにもタイミングが良すぎる。それに、アスナが不在だというのに空腹など感じるものだろうか。いや、有り得ない。
考えられるとすれば、嫌がらせの類。彼の扱いがややぞんざいであった私たちへの、ちょっとした意地悪のようなもの……そう仮定しても矛盾しないのだ。
それ故に、私はドン引きしたのである。その精神年齢の低さに。
扉に手を掛けたまま、私とアスナは互いの顔を見合わせる。どうしてやろうか、という相談ではない。一体、どう反応したら正解なのか……その答えが、どうしても見つからなかったのだ。
謝罪した方が良いのだろうか。それとも、激高した方が正しいのだろうか。
そんな私たちをよそに、莫は食器の後片付けを始めた。この男、どこまでもマイペースである。ここで鼻歌でも交えれば役満ともなろうが、そこはさすがに自重したようだ。
もういい。この際、あの男のことは放っておくとしよう。そう考え直し、静かに家の中へと入り扉を閉め、軽く息を吐く。
「ええと……とりあえず、実験開始といこうかな。まずは原材料から集めないといけないんだけど、タカジアスタ草、だっけ。それってどこにあるのか分かる?」
気を取り直そう。
あのポーションの製造に必要なのは、タカジアスタ草、赤い湖の水、それに土だったはず。単純に考えれば、水と土は触媒作用を期待しての利用だろう。そうであれば、薬効を有しているのはタカジアスタ草、ということになる。
残念なことに、あの施設でタカジアスタ草の現物を目にする機会はなかった。たとえ目にしていたとしても、あの暗さでは葉の特徴など把握しきれるものではない。そうであれば、まずはこの世界の住人であるアスナに伺うのが妥当といえよう。
「タカジアスタ草、ですよね……少なくとも私の国では、そんな名前の植物なんて見たこともなかったですね……。すみません、お役に立てず」
聞いておいて失礼な話であるが、私はこの返答を予測していた。貴族出身のお嬢様が、図鑑もないようなこの世界で植物に興味を抱くとは思えない。それに、そもそも国が違うのだからその名すら異なっている可能性もあるのだ。そう考えればやむを得ないだろう。
「いいよ、気にしなくても。でも、そうか……それだと、誰かに聞かないといけないよね。村長の息子さん、名前は……フマルさん、だっけ。その人に聞いてみようかな」
確か、何かあればフマルに声を掛けるように、とあの村長から言われた記憶がある。彼の息子ということで、恐らくは次期村長と目される人物なのだと思われる。これを機に面を通しておくのも悪くない。
しかし、この村の特産品であるポーションの製造に用いる薬草の情報を、よそ者に教えるというのは気が進まないだろう。あまり村人たちに不審がられるような行動は避けたかったが、仕方があるまい。
「おや、何で僕には聞かないんだい?」
「さて、じゃあさっそくフマルさんのところへ行こうか。……っと、昼食を摂ってからの方が良いかな?」
忘れそうになっていたが、私たちはまだ昼食を摂っていない。私はともかく、そろそろアスナの空腹も限界に近付いている可能性がある。それに、何か考え事をするのであれば、まずはエネルギーの補給を第一に考えた方が良い。
良いパフォーマンスは良い生活から――――これは学生時代、所属していた研究室の教授による金言である。当時は聞き流していた言葉であったが、歳を重ねた今となっては、その意味を痛切に感じるのであった。
「おーい、聞こえてないのかい?」
「い、いいえ。リナさんの思うようにしていただいた方が良いと思います。もう陽も少し傾きつつありますし、天候だって急に悪くなることもありますから」
少し恥ずかしそうに、しかしその腹部を押さえつつアスナは答えた。何も遠慮することなどないのだが……とはいえ、確かに彼女の意見にも一理ある。時は金なりともいうし、その一方で急がば回れ、という言葉もある。食事か、実験か。どちらを選択するかは、私の――――
「なあ、本当に聞いてくれって。無視しないでくれよ、頼むよ」
「……」
切羽詰まったような声で、少し泣きそうな表情を浮かべた莫が私の眼前へと踊り出る。両手を合わせ頼み込むその姿は、どこか解雇寸前の無能な社員にも見えて哀れに思えた。
……言っておくが、今まで彼の発言をスルーし続けていたのは、先ほどまでの態度が気に食わなかったという訳ではない。そんなことをするほど私は暇ではないし、今後の付き合いに悪影響を及ぼすようなことなど、率先して行なう理由はない。
単純な話、彼から有益な情報が得られるとは思えなかったのである。アスナと同郷ということもあるが、はっきり言って彼からは知性を感じないのだ。それ故に、私は意図的に彼の話を無視した。時間の無駄だから、ということ以外に理由はない。
しかし、これ以上無視し続けてもあまり有意義ではないだろう。議論も行き詰まっていることであるし、仕方がない、念のために聞いておくとしよう。
「……では、意見をどうぞ」
「え、何でそんなに素っ気ないのかな……まあいいや。タカジアスタ草だろう? もちろん、知ってるとも。何せあれには、何度もお世話になったからね」
「……は?」
意図せず、アスナと声が同調してしまった。そのくらい、彼の発言は虚をつくものだったのだ。
今や、つむじ風の扉を鳴らす音だけが、静まり返った室内へと響いている。
「ごめん、莫さん。もう一回、言ってもらっても?」
「……だから、知ってるんだってば。葉っぱをすりつぶして、傷口に塗るだけで治るんだ。生傷の絶えない戦場では、とても重宝したものさ」
昔を語る管理職の如く、彼は遠くを見つめながら軽く微笑みを浮かべる。なるほど、インテリジェンスとは無関係に、純粋なる体験がある訳か。だからこそ、ここまで自信たっぷりに発言が出来たのだろう。
それに、その植物の効果もポーションと類似するものがある。即効性、それと組織修復性。そのいずれも、あのポーションと同等程度であると考えて良いだろう。
「ごめんね、莫さん。どうも私は、あなたを見くびっていたみたい」
「……それ、褒めてないよね……?」
「いいえ、過小評価から正当な評価へと向上したのです。これは重要ですよ」
「そう、なのかい? ……ならいいけど……」
釈然としない様子であるが、少しだけ顔がニヤついている。そういう彼の分かりやすいところは、以前から評価しているものだ。アスナもそれに気付いたのか、少しだけ口角を上げた。
それはそうとして。一つ、その薬草がタカジアスタ草だとすれば、大きな矛盾が生まれる。
あの神官が言っていた言葉……ポーションの原液は毒性が強い、という事実。もしそれが正しいのであれば、莫の話との間に齟齬が生じてしまう。何故なら、それが本当だとすれば彼は毒薬を傷口に塗りたくっていた、ということになるからだ。
当然、塗るだけならば経口摂取するよりも遥かに吸収されにくい。しかし、それは正常な皮膚であれば、の話である。創傷部位、すなわち脆弱な組織の露出した面へ塗布してしまうと、その深さによっては毒薬が浸透する事態を招きかねないのだ。
仮にその薬草がタカジアスタ草であったとすれば、何らかの毒性を示してもおかしくはない。全身性の症状を呈さないまでも、少なくとも局所的に発赤や疼痛を生じても不思議ではないのである。
「あの、それを塗ると痛みますか? 沁みるだけですか?」
「そうだなあ……それ以上に全身が痛いから、そんなこと気にしたことなかったな」
「赤くなったり、痒くなったり、とかは……?」
「うーん、多分だけど、それはないね」
彼の表情から察するに、それは真実だと考えて差支えない。そうなると、ポーションの原液は毒性が高いというものは嘘なのだろうか。
いや、そうであればわざわざ祈祷魔法、などというまどろっこしいことをする意味などない。ポーションの原液は毒、それも事実と考えた方が良いだろう。となれば、やはり解毒方法は私の推察通り、ということになろうか。
「……あのさ、ちょっといいかい?」
ブツブツと呟く私に少し怯えつつも、小さく挙手をした莫が声を上げる。思考を阻害されたことに少し腹が立ったが、耳だけ彼に傾ける。
「なんでタカジアスタ草なんか調べてるんだい? そんなに欲しいなら、最初に言ってくれれば良かったのに。何せ、タカジアスタ草はあの森にしか生えていないんだ。取りに行くのなら、今日はちょっと難しいんじゃないかな」
「……え?」
思考は止まり、ただその発言だけが脳内に木霊する。噎せ返るほどの強烈な臭い、それに尋常ではない蒸し暑さ……未だに私の体に染み付いて拭えない、あの不快感。そんな森にまた戻るなど、到底受け入れられるものではない。第一、私はあそこで死にかけたのだ。いい思い出など微塵もない。
「本当なの? どこかで買えるものではないの?」
「ええ。この村の市場には少なくともありませんでしたし、そもそもポーションがあるなら、あんなもの必要ないじゃありませんか」
全くもって、莫の言う通りである。何も知らない市民は、得体の知れない製法の、しかし薬効の確かなものを購入すればいいだけの話なのだ。それほど、この世界の人間にとってポーションとは当たり前の存在、ということだ。
「……どうしましょう、リナ。これでは……」
アスナの焦燥もよく分かる。こうしている間にも、彼女の母国は徐々に衰退の一途を辿ってゆくのだ。一日、いや一秒たりとも、無駄にしていいはずがない。
「はあ……そうだよね。仕方ないか……」
やむを得まい。彼女のために、そして私の誇りのために戦うと決めたのだ。形振りなど、今さら気にしても意味はない。今は形式に拘らず、ただ大局のみを見据えていくしかないのだ。
はあ、と大きく溜息を吐いた後、私は妙に膨らんでいたポケットに手を入れる。そして、そこから紫色のポーションを取り出した。チャプンと音を立て、その液面は怪しく揺らめいている。
「……え?」
「それ、なんだい?」
興味津々に覗き込む莫とは対照的に、アスナは一歩後退り、顔を引き攣らせる。
「まさか……持ってきたのですか……?」
「返してくれとは言われなかったし。それに、この状態のポーションを持ち帰ったところで価値はないでしょ? だから大丈夫かなって。……本当は使いたくはなかったんだけど、しょうがないよね」
これは、はっきり言って不本意である。本来であれば原材料を収集し、原液を作製するところからやるべきなのだ。この小瓶一つではサンプル数としても充分な量を確保できないし、作製時の条件が不明確であるため再現性がないのだ。こんな実験を提案でもしたら、教授陣どころか大学院生にすらこき下ろされるに違いない。
それ故に、これは実験ではない。魔法ではなく科学である、と証明するだけのものである。
「じゃあ、始めようか。魔法なんてもの、私がこの手で壊して見せるから」




