56話 前世の話
毎晩、シーマは女のもとを訪れ、心の中に入った。
ミリヤの前世のエリスは魔術の研究に勤しむ才女である。後に女王となるアフロディーテの幼なじみでもあった。身分の差こそあれ、友人に近い間柄だったかと思われる。外海での少女時代は学術士勉強の傍ら、アフロディーテに仕えるという二重生活を送っていた。
現世のミリヤと生い立ちはほぼ同じだ。幼いころよりアフロディーテを護れと、それがおまえの使命だと教え込まれてきた。
アフロディーテの父ユピテルは、想像以上に小物だった。外海でも重罪人としてしか、名を残せなかっただろう。王としては、あまりに不相応な人物だ。
外海の小国にて、公爵だったユピテルは謀略を暴かれ亡命することになる。亡命先へ向かう途中、嵐に巻き込まれ、アニュラスにたどり着いたのだった。
純粋無垢なエゼキエルはユピテルを受け入れ、もてなした。悪賢いユピテルはお人好しのエゼキエルをうまく利用してやろうと思ったのだろう。娘のアフロディーテと契らせるという罠を仕掛けた。
ここらへんの話はアニュラス史から削除されている。
エゼキエルがアフロディーテを娶らなかったため、ユピテルは鉄の艦隊と銃火器を駆使して、アニュラスの美しい大地を破壊した。これが始まりの戦いだ。ちなみに現在、人間たちが持ち込んだ銃火器の技術は魔法学が隆盛となったことで廃れ、グリンデルとドワーフ界隈でのみ残っている。
当初、旧国民たちは健闘していたように思う。ユピテルは討ち取られ、重臣たちのほとんどが死んでいる。
この時、エリスの両親も亡くなり、旧国民や亜人に対して強い憎しみを持つようになった。
エリスの仕事は戦地に赴き、学匠としてケガ人の手当てをすることだけではなかった。旧国民の操る魔術を習得し、亜人の生態を研究することも重要な任務であった。
エリスは捕まえた亜人を切り刻んだ。憎っくき仇である亜人を研究材料とすることに罪悪感はない。
そのころ、シーマの前世、イシュマエルと出会った。
イシュマエルは闇へ堕ちたエゼキエルの代わりに、アオバズクを守ることになった妖精族の王だ。
残念ながら、故郷のアオバズクは人間の手に落ちてしまう。魔の国に併合されることを拒否したからである。イシュマエルにとっては人間も魔人も同じだった。
エゼキエルは言いなりにならないイシュマエルに激怒し、アオバズクの防衛を解いた。後ろ盾を失ったアオバズクは人間たちの流入を防げず、破滅の一途をたどる。殺され続け、生き残っても奴隷として虐げられる仲間を憂いて、イシュマエルは自らの命を捧げる道を選んだ。
国を守る結界に自分の霊力を吸わせ、強化させたのである。結界とリンクする魔石を体に埋め込み、毎日少しずつ霊力を供給した。一度に送らないのは、生きた状態のほうが多量の霊力を供給できるからである。妖精族は生きることで霊気を自家生産する。
この術の欠点は一度開始すると、止められないところだ。イシュマエルが死んで塵となるまで、搾取は続く。力を奪われるイシュマエルは日を追うごとに若返った。
少年イシュマエルを保護したエリスは、愛情を注ぐようになった。戦場で荒んだ心をイシュマエルの能力が癒す。少年に触れることで、アニュラスの絶景の数々をまぶたの裏に浮かべることができた。そして、皮肉なことに、それらはすべて人間が奪ったものだったのだ。
ミリヤの心の中に入った初日、思念が逆流したように感じたのはこれのせいだった。日ごろ、イシュマエルがエリスに映像を見せていたため、波長を合わせるのが当たり前になっており、入られることに抵抗がなくなっていたのである。心の中の世界でシーマはイシュマエルと同化している。
人間に対する激しい憎悪は現世のシーマと重なる。イシュマエルは当時からすでに、魔人を使って人間たちの世界を破壊する構想を膨らませていた。
強い思いが現世でのシーマの行動に影響を与えたのだと思われる。
ミリヤの心に触れることで、シーマは前世の記憶を取り戻していった。憎悪の炎はますます燃え上がり、ディアナ征伐の決意はよりいっそう強固になる。
その間、アスターから援軍を出せと要請があったが無視した。
魔王とは名ばかりのエゼキエルの立場は危うく、魔国の小王であるドゥルジに攻め入られそうだと。助けることで、魔国とつながりが持て、グリンデルを牽制できると、文には書かれてあった。
ドゥルジはグリンデルと協力関係にあり、妖精族を奴隷にするクズ魔人だ。しかし、エゼキエルに恩を売って損はないというアスターの道理が、シーマには理解できなかった。妖精族を食い物にする点では、エゼキエルは人間やドゥルジと同じである。
シーマの興味の大半は国内のことに絞られた。熱意のほとんどはディアナの動向とシオンの捜索、ヘリオーティスの掃討に注がれる。
ヘリオーティスの拠点についての情報は、ミリヤの心の中に入り始めて数日後に得られた。過去の記憶とは別の部屋に収納されていたのだ。アフロディーテのもう一人の生まれ変わり、グレースはディアナと共に瀝青城にいる。
必要な情報を得たというのに、シーマはミリヤの心に入るのをやめなかった。砂漠の旅はいつしか緑化活動に変わる。シーマはミリヤの中でイシュマエルに戻り、愛を育んだ。砂漠には草が生え、木が育ち、花が咲くようになる。
現実世界でもミリヤの世話をすることは、一種の楽しみであった。美しい女から自由を取り上げ、飼育する。ミリヤのほうも、薬の作用と環境のせいで従順になった。死んだも同然の女にとって、シーマは唯一のよすがである。シーマは彼女にわずかな光と水分と養分、清潔をもたらした。
シーマが姿を現すと女は喜び、喉を鳴らして水を飲み餌を食べた。
風呂は週に一度。その時だけ使用人に準備と片付けをさせた。体や髪を洗うのはシーマの役目だ。
傷だらけのミリヤの体は痛々しかった。執拗な責めを負った乳房は歪な形をしており、片方の乳首はもぎ取られている。シーマの治癒能力では時間の経過した傷は治せない。女の体に消えない痕を残した拷問吏に憤りもした。
──あれ? 拷問吏を差し向けたのは俺だし、彼は自分の与えられた職務を果たしただけだ。何も悪くないじゃないか
矛盾する自分の感情に戸惑う。理屈通りにいかないのは嫌いだ。
ミリヤは恥じらうことなく、その身をシーマに任せた。魔法の札のぼんやりした灯りに、均整のとれたシルエットが浮かび上がる。
「醜いだろう? 体を使って男を騙すことはもうできない」
自嘲する彼女をシーマは濡れるのも厭わず、そっと抱きしめた。
心の変化が訪れたのはミリヤも同様だった。
監禁というのは体だけでなく、心の自由も奪う。逃亡の意欲は薄れ、目の前にある生理的欲求を満たすことしか考えられなくなる。
シーマとミリヤとの間には、飼育者と愛玩という形の絆が生まれていた。前世での立場が逆転したのである。
シーマは黒髪のかつらを被り、拷問吏のふりをし続けた。
風呂のあとは髪を綺麗にしてやる。無造作に切られた髪を揃えてやると、頬までの長さしかない。今のミリヤは少年のようだった。
「ねぇ……わたしのことを殺さないのはなぜ?」
「殺しても意味がないからさ。ヘリオーティスの情報は全部頂いたし、おまえはもうディアナのもとへは戻れない。裏切り者だからな?」
「わたしは死んだも同然ということか……」
薬でぼんやりさせられることが続いたため、その間に漏らしたのだとミリヤは納得している様子だった。唇を噛み、悔しそうな顔をする。
シーマは慰めるどころか、さらに絶望へと落とした。
「逃げたところで、行く場所もないだろう。おまえには俺のペットになる選択肢しか残されていないのだよ」
自殺されては困る。だが、何もかもをあきらめてもらうには、ほどよい絶望が必要だ。シーマは彼女を操作するため、同じ言葉を何度も繰り返した。時には心の中へ入り、強い言葉を直接植え付けることもあった。
風呂を片付けさせている間に、体を拭いて服を着せる。サイズだけ渡して、わざわざ仕立てさせたのだ。デザインは仕立屋任せだったから、華美過ぎた。愛人の服かと思われたらしい。
今まで地味な装いしかしてこなかったミリヤは、
「変な感じがする」
と、顔をしかめた。レースをふんだんに使った甘いドレスはディアナが好みそうだ。あいにく、ミリヤのほうが似合っているが。
「なんて、かわいいんだ、おまえは!」
風呂の片付けを終えた使用人たちが出て行ったあと、シーマはミリヤに抱きついた。ミリヤは抵抗せず、呆れた声を出した。
「結局、あんたも同じか? 気持ち悪いよ? ほんとはセックスしたいくせに、いい人ぶって何もしないとことか、ナードっぽい」
シーマはムッとした。女から差別的な言葉を投げられたことは一度だってない。たいていの女はシーマの虜になり、媚を売る。それは太っていようが痩せていようが不変だった。
シーマは言い返した。
「淫乱女はよほど淋しいように見える。自分の価値を高く定めていることに気づきもしないのか?」
「じゃあ、あんたが用なしのわたしを囲ってるのはなんで?」
ゴクリ……シーマは唾を飲んだ。
言われてみると、理由がわからない。密かに女の世話をするのが楽しい。心の中に入り込み、過去の記憶に触れたり、女の精神を管理する。義務的に日々行っていることは、なんのためにしているのだ? 不要となった彼女を生かしておく理由は?
「ほら、やっぱりそうだ。普通にキモいから。頭ん中、汚い欲望でいっぱいのくせに、済まして笑ってんじゃねーよ」
生きたい、逃げたい──いっさいの希望を失ったミリヤは強かった。諦観しているだけで、従順になっていたわけではなかったのだ。ならばと、シーマはミリヤの細い首に手を伸ばした。
彼女もそれを望んでいるし、シーマのやるべきことでもある。ミリヤはヴィナスを亡き者にした実行犯だ。悪女にふさわしい最期は?──命で償わせる以上の譲歩はできない。幸せな時間と命を奪った罪は重い。傷だらけの体は自業自得の結果である。
殺しても足らないぐらいだというのに、伸びた指先は触れる寸前で止まった。
簡単なことだ。両手で首をつかみ、力を入れる。シーマの握力で圧迫すれば、無抵抗の女は数分で息絶えるだろう。止まったまま動かない自分の指先をシーマはにらんだ。
覚悟して目を閉じるミリヤのまつ毛が震えている。
憐憫の情があふれてくるのはなぜか? ふてぶてしい女は後悔も反省もしないし、ディアナのためにしたことは正しいと思い込んでいる。
憎くて堪らない。許せない。かわいそうだ。守りたい……どちらだ? 殺したい。苦しめたい……癒やしたい。笑顔が見たい……シーマは混乱した。
適度に厚みのある唇は、わずかに開いている。その中にある肉をかき回して、吸い付きたい。脈動に震える白いうなじを舌で感じ取りたい。彼女の全身に指先を這わせて、造形を触知したい。
シーマは女を殺したくない。
ミリヤを愛してしまったのだと、その時初めて気づいた。




