不審人物
部屋に入るなり、昊星はリビングのソファに座ってテーブルに置かれたパソコンを開き、柊は汗を流そうとシャワーを浴びに行った。
「床、拭いとけよ」
「えっ?」
と振り返って見ると、垂れた雫が浴室から点々と続いていた。柊は、バスタオルで濡れた毛髪を拭いてはいたが、濡れた体は拭きもせずに濡れたままでバスローブを着用していたのだ。
「姉貴が不機嫌になるからな」
と、昊星が床を指差したまま言うと、
「姉さん?……この近くに住んでるのか?」
「うん、隣」
「お隣さん?」
柊は、右か左かと指差して両腕を真っ直ぐに伸ばして言った。
昊星が、床を差して指をそのまま右の方に移動させた。
柊が、透かさず踵を返した。
「姉貴は留守だぞ」
昊星は、その背に向って声を掛けたが、柊は、聞き耳も持たず無視して部屋から飛び出して行った。
玄関扉が、静かに閉まった。
嬉しそうに部屋から飛び出してきた柊は、お隣さん家の玄関扉の前で立ち止まって、見上げた。視線の先にある表札には、『源氏百合』と書かれてあった。
柊はドキドキと胸を高鳴らせて、玄関ベルを押した。が、中からは何の反応も返ってこなかった。再度、ベルを押してみたが、先程と同様に反応はなかった。ここで諦めないのが柊である。玄関ベルがダメなら、ドアを拳でドンドンと叩いた。それでも何の反応も返ってこなかった。それならばと、
「お留守ですかッ」
と言いながらドンドンと扉を叩いていると、住人らしき女性が通路を歩いてきた。視線を感じてその方に眼を向けた途端、女性の眼と眼が合った。瞬間、女性が眉を顰めて顔を背けた。そして、胡散臭そうな柊を避けるようにして遠巻きに通り過ぎていった。
「いや、俺は怪しい者ではありません。お隣さんの友人でして」
と言いながら、柊はその女性を見送った。
何故に眉を顰めて避けるように通り過ぎて行くのか?……柊にはその女性の行動が理解できなかった。ただお隣さんである百合を訪ねてきただけなのに。柊は自分の目的が何であるかはわかっていた。だが、どんな格好でそこに立っているのかまではわかっていなかった。バスローブを着た者が通路に立っていれば、誰もが不審人物と思うであろうに。
柊は、後ろ髪に引かれながら隣室を後にして、昊星の部屋の前に戻った。玄関扉のドアノブを掴んでそれを回転させた。が、ドアには鍵がかかっていて開かなかった。柊は狼狽え、拳で激しくドアを叩いた。
「おい!俺だ!開けてくれ!」
と、そこへまたも別の住人がやってきて、胡散臭そうに柊を見ながら通り過ぎていった。
「俺は怪しい者でも、不審人物でもないですよ。この部屋の友人でして。アハ、アハ、アハ」
と、苦笑しながら見送った。
昊星が、ドアを開けると
「鍵をかけて閉めだすなよ」
柊が、情けない顔付きで言うと
「オートロックでんw」
と、昊星が平然と返してきた。
「留守なら留守って」
「そう言ったが、君は聞き耳も持たずに飛び出した」
昊星にそう言われて、シュンとする柊であった。
部屋に戻ると、ダイニングテーブルの上に大量のソーメンが大きな笊に盛られて置かれてあった。
「食べようぜ。腹減っただろう」
昊星が言って、テーブルの椅子に腰かけた。
「一人でこんなに食べるのか?」
柊は聞きながら、昊星の前の椅子に座った。
「昼と夜の分」
「昼と夜?」
「姉貴は大ざっぱでね。食べきれない時は、夜に廻せって」
「いつもこんな風に?」
「うん。仕事が多忙な時は何でも大量に作るんだ。残しておくためにね」
笊の横には皿に盛られた大量の刻みネギ。
口をあんぐりと開けたまま、柊はそれを眺めていた。
「お前は何もしないのか?」
「するよ」
「だったら、床を拭かないとな」
「それは君が負うべき責務。床を濡らしたのは君だから」
と言うなり、昊星はソーメンを食べ始めた。




