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Vanitas vanitatum  作者: イヲ
第八章
34/56

糸車・2

百合子は息を切らせて、葵重工の最上階へ駆け上っていた。

エレベーターは、15階からなくなっている。

よって、後は自分の足で登らなくてはならないのだ。


「はぁ、はぁ、はぁ」


近頃忙しすぎてジムに通っていない事が仇になったのか。

ひどく息を切らせて、20階まで上りきった。


エ霞からの連絡で、今すぐに社長室へ来いと言われたのだ。

百合子は内心びくびくとしながら、階段を上ったが、とうとうたどり着いてしまった。

緊張しすぎて、心臓が口から飛び出そうだ。


社長室の前に行くと、観葉植物が迎えるように置いてある。

それを通り過ぎて、震える手で扉をノックした。


「お入りなさい」


ゆるやかな、少女のような、少年のような声。

百合子は静かに、できるだけ音を立てないように扉を開く。


「失礼します」


社長は立派な机の上にたくさんの小型パソコンを置いて、そこに埋もれるように座っていた。

冷や汗を垂れながらも、頭を下げると、その少女はちいさく微笑んだ。


「そんなに硬くならないで。百合子さん。今日お呼びしたのは、他でもないわ。…というよりも、分かっているわよね?」

「はっ、はいっ!申し訳ありません!ですが、人命保護を優先した結果…」

「そう。そうね。それはわたしも分かっています」


パソコンに埋もれていた少女は、ゆっくりと立ち上がって百合子の前へと歩んでくる。


「エ霞くんから聞いたわ。何でも…観世水邸のご子息お二人を預かっているようね?」

「はい。申し訳…」

「謝る必要はないわ」


――少女、源狭霧(ミナモト サギリ)は、艶やかな長い黒い髪をたゆらし、かぶりを振った。

百合子はここに来て初めて怪訝な表情をする。


「どういう…?」


叱責の覚悟だったというのに、何故。


「だって、おかしいじゃない。国は人命を守る義務があるのに、人命を蔑ろにしているなんて。わたしは認めない。五室だろうと、執行部隊だろうと」


白いシャツ、紅色のリボンタイ、そして紺のワンピース。

少女、狭霧は、齢40を越えている。

越えているが、姿はまるで10代の少女。

何故、その姿のままなのかは、百合子にも分からない。


「では、どうされるのですか?まさか、宣戦布告…」

「いやね、そんな事はしないわ。彼らがここにいるということで、利益はあっても不利益はない。なぜなら――」


彼女は一つ、咳をしてから言葉をつむぐ。


「彼、真君がいることで、国は手出しはできない。牽制になるのよ」

「社長、一体何がお望みなのです?」

「イザヤをご存知かしら」

「はい」

「イザヤはね、この国をコード化して、すべての人間の出身地、名前、性別、体重、身長…細胞まで、数え切れないほどの人間のデータを、イザヤに保存しようとしている。そうする事で、『未来の』人間の踏み台にしようとしているのよ」


どういうことなのか、いまいち分からない。

百合子が押し黙っていると、ふふっ、と彼女は笑った。


「わたしたちが知っているのは、過去でも未来でもない。『今現在』よ。昔を知っていたとしても、それは何の根拠があるのかしら?それは、記憶、記録に他ならない。でも、それ自体は曖昧なものよ。その根拠と言うべき何かを利用して、あの男たち…『裏』たちは、すべての人間の意志を無駄にしながら、イザヤに保存する」

「意思を…無駄に?」

「そう。今、わたしたちが考えている事。意思を、裏たちは何もかもなかったことにしようとしている。体のデータ、コードだけをイザヤに強制的に保存しようとしている。そこに意思も何もあったものじゃない。ヒトが覚悟をして死を選んだことも、覚悟をして生きようとしたことも、そのイザヤには保存されない。そもそも、イザヤは…」


くるり、と彼女はデスクのほうへと視線を向けた。


「イザヤは、ヒトの脳を基盤にして造られている。真君は、その犠牲者。何の罪もない、たまたま観世水の家に生まれたという理由だけで、真君を裏は利用している」

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