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Vanitas vanitatum  作者: イヲ
第八章
33/56

糸車・1

エ霞がいなくなって一日がたった。

誰にも言わずにいなくなったからか、百合子はひどく心配していたが、今それどころではなくなった。

いや、エ霞は心配だが、それは、いや、しかし――。

混乱している。


「あああ…もうどうしたら…」


真までも怪我をしていて、何がどうなっているのか分からない。

籬も睡蓮も機嫌が悪くて、どうなっているのか口も開いてくれずにいる。


「…ん?」


静まり返った部屋。そこに、控えめな電話のベルが鳴り響く。


――エ霞だった。






琳に宛がわれた部屋には、無機質で、質素だった。

白い。何もかもが。

そこに佇む真の髪、入院着さえも白く、まるで雪が降った後のような沈黙がある。


「兄さん、おれ、ごめんなさい」


はだしのまま、凍えそうに赤くなっている指先をそのままに呟く。

重症を負った自らの兄に謝る言葉が見つからない。


静かに目を開いて、真の顔を見上げる琳の姿は、今までになく弱弱しい。


「…真」

「兄さん、ごめん。ごめんなさい…」


赤い目が僅かに滲む。

琳は見えぬその目を真へと向けて、微笑んだ。


「真、…謝らないでください。家族を、…いえ、弟を守るのは当たり前のことです」

「…でも、父さんのところにはもう、行けないでしょう」

「私の意志ですから。五室は、私がいていい場所ではない」


眼鏡は壊れ、どこかに置いてきてしまった。

その所為で、顔がよく見える。ほんとうに向き合って話すのは、たぶん今日が初めてだろう。


「大丈夫。あなたは、あなたとして生きていけるように私たちが守りますから」

「おれが…おれとして?」

「はい。あなたは生きていなければならない人間です。他の者のために怒り、戦う事ができるあなたは、死んでいい人間ではない」


そっと、真の頬に手を添える。


――初めて、『生きていていい』と言われた。


赤い目から、涙がこぼれ落ちる。

頬を横切って、それは床へと静かに落下した。






夜の病室のように静かな部屋を、籬と睡蓮が守っていた。


「・・・」

「真、言ったわね」

「…?」


睡蓮はワンピースを脱ぎ、エ霞とおなじライダースーツを着込んで壁に背を預ける。


「『国のお人形なんかじゃない』って」

「…ああ」


彼女は、僅かに顔をゆるめて微笑んでいた。

今なら分かる。

睡蓮が微笑んでいる意味を。


「どう?これからが守るための戦いって事じゃない?真は死なせはしない。私の存在意義にかけて」

「そうだな」


頷いて、扉の向こうを見据える。

熱源が、二体。

血圧も、脈拍も異常は見当たらない。そっと息を吐いて、今は経過を見守るしかないと思考する。


「死なせはしない。決して、だ」

「うん、そうだね。…にしても、エ霞はどこ行ったんだか…。帰ってきたらシメる」

「賛成だ」

「お?言うようになったじゃない、籬」


つん、と肘で突かれて、籬は苦々しく彼女を睨んだ。




「おーいっ!籬、睡蓮!」

「あっ、蝶子だ。それに、道成寺も」


廊下を無遠慮に走ってきた影は、葵重工のなかでも名物になっている蝶子と道成寺だった。

二人とも、肩に雪を乗せている。

蝶子が着ているのは、どうみても男物のダッフルコートだ。

彼女の事だから、たぶんコートなんて持っていないのだろう。

反対に道成寺は都会的なダウンコートを着込んでいる。


「ちわっすー。籬に睡蓮さん」


なぜ睡蓮だけ敬称をつけるのかは、蝶子と睡蓮にしかわからない。

尤も、籬にとってはどうでもいいことだが。


「相変わらず軽いねえ。道成寺は」

「あっ、ひどいなぁ睡蓮さん」


さも傷ついたかのように大声で笑う、自分より10センチも背が高い道成寺を冷めた目で見ながら、睡蓮はくちびるに人差し指を当てた。


「しぃっ。静かに。で、蝶子。どうしたの?」

「うん、ちょっと行き詰っちゃってね。気分転換に帰ってきたんだけど」


どうも胡散臭い空気だわ、と肩を竦める。

たぶん、百合子か誰かに聞いたのだろう。


「これヘタすりゃ、国とドンパチだわよ」

「うへぇ、マジすか!?大変なときに帰ってきちゃったなぁ」

「うへぇって何よ、道成寺。こちとら、その心意気で二人を保護したんだからね。ほめてもらいたいもんだわ」


睡蓮に睨まれて、彼は背をぴんと伸ばして、「はいっ」と大きな声で返事をした。




まるで、蛇に睨まれた蛙だな。


と、籬は胸中でたとえた。


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