糸車・1
エ霞がいなくなって一日がたった。
誰にも言わずにいなくなったからか、百合子はひどく心配していたが、今それどころではなくなった。
いや、エ霞は心配だが、それは、いや、しかし――。
混乱している。
「あああ…もうどうしたら…」
真までも怪我をしていて、何がどうなっているのか分からない。
籬も睡蓮も機嫌が悪くて、どうなっているのか口も開いてくれずにいる。
「…ん?」
静まり返った部屋。そこに、控えめな電話のベルが鳴り響く。
――エ霞だった。
琳に宛がわれた部屋には、無機質で、質素だった。
白い。何もかもが。
そこに佇む真の髪、入院着さえも白く、まるで雪が降った後のような沈黙がある。
「兄さん、おれ、ごめんなさい」
はだしのまま、凍えそうに赤くなっている指先をそのままに呟く。
重症を負った自らの兄に謝る言葉が見つからない。
静かに目を開いて、真の顔を見上げる琳の姿は、今までになく弱弱しい。
「…真」
「兄さん、ごめん。ごめんなさい…」
赤い目が僅かに滲む。
琳は見えぬその目を真へと向けて、微笑んだ。
「真、…謝らないでください。家族を、…いえ、弟を守るのは当たり前のことです」
「…でも、父さんのところにはもう、行けないでしょう」
「私の意志ですから。五室は、私がいていい場所ではない」
眼鏡は壊れ、どこかに置いてきてしまった。
その所為で、顔がよく見える。ほんとうに向き合って話すのは、たぶん今日が初めてだろう。
「大丈夫。あなたは、あなたとして生きていけるように私たちが守りますから」
「おれが…おれとして?」
「はい。あなたは生きていなければならない人間です。他の者のために怒り、戦う事ができるあなたは、死んでいい人間ではない」
そっと、真の頬に手を添える。
――初めて、『生きていていい』と言われた。
赤い目から、涙がこぼれ落ちる。
頬を横切って、それは床へと静かに落下した。
夜の病室のように静かな部屋を、籬と睡蓮が守っていた。
「・・・」
「真、言ったわね」
「…?」
睡蓮はワンピースを脱ぎ、エ霞とおなじライダースーツを着込んで壁に背を預ける。
「『国のお人形なんかじゃない』って」
「…ああ」
彼女は、僅かに顔をゆるめて微笑んでいた。
今なら分かる。
睡蓮が微笑んでいる意味を。
「どう?これからが守るための戦いって事じゃない?真は死なせはしない。私の存在意義にかけて」
「そうだな」
頷いて、扉の向こうを見据える。
熱源が、二体。
血圧も、脈拍も異常は見当たらない。そっと息を吐いて、今は経過を見守るしかないと思考する。
「死なせはしない。決して、だ」
「うん、そうだね。…にしても、エ霞はどこ行ったんだか…。帰ってきたらシメる」
「賛成だ」
「お?言うようになったじゃない、籬」
つん、と肘で突かれて、籬は苦々しく彼女を睨んだ。
「おーいっ!籬、睡蓮!」
「あっ、蝶子だ。それに、道成寺も」
廊下を無遠慮に走ってきた影は、葵重工のなかでも名物になっている蝶子と道成寺だった。
二人とも、肩に雪を乗せている。
蝶子が着ているのは、どうみても男物のダッフルコートだ。
彼女の事だから、たぶんコートなんて持っていないのだろう。
反対に道成寺は都会的なダウンコートを着込んでいる。
「ちわっすー。籬に睡蓮さん」
なぜ睡蓮だけ敬称をつけるのかは、蝶子と睡蓮にしかわからない。
尤も、籬にとってはどうでもいいことだが。
「相変わらず軽いねえ。道成寺は」
「あっ、ひどいなぁ睡蓮さん」
さも傷ついたかのように大声で笑う、自分より10センチも背が高い道成寺を冷めた目で見ながら、睡蓮はくちびるに人差し指を当てた。
「しぃっ。静かに。で、蝶子。どうしたの?」
「うん、ちょっと行き詰っちゃってね。気分転換に帰ってきたんだけど」
どうも胡散臭い空気だわ、と肩を竦める。
たぶん、百合子か誰かに聞いたのだろう。
「これヘタすりゃ、国とドンパチだわよ」
「うへぇ、マジすか!?大変なときに帰ってきちゃったなぁ」
「うへぇって何よ、道成寺。こちとら、その心意気で二人を保護したんだからね。ほめてもらいたいもんだわ」
睡蓮に睨まれて、彼は背をぴんと伸ばして、「はいっ」と大きな声で返事をした。
まるで、蛇に睨まれた蛙だな。
と、籬は胸中でたとえた。




