エ霞・1
「何故、主を?」
籬にとっては見知りすぎている、リノリウムの床。
真に取り入っていた機材を全て撤去し、ベッドへと移されたのはこの研究所に入ってから10時間後の事だった。
目の前を通ってゆく高峯を壁に凭れ、腕を組んだままの籬が問う。
相変わらず漆黒色の着流しを着ている男は、ひたりとこちらに視線を移した。
「ほう。合成人間にも、疑問を感じる事もあるのか」
眉をわずかに動かし、驚いて見せようとしたのだろうが、どこかその表情は暗く、疲弊しきっているように見える。
「主に関するデータは、できるだけ吸収しておきたい」
「…成程。これだけは教えよう。私たちの世代よりも、ずっと若い人間たちの未来のためだ。…それ以上は君に教える事はできない。任務に支障をきたす恐れがある」
「・・・」
「いいね。余計な詮索はしない方が身のためだ。君も、真も、まだ若い」
高峰はこちらを一瞥したあと、袖をひるがえして去っていった。
一人残されるは、籬。
壁にもたれかかったまま、目を閉じた。
擬似的に送り込まれてくる、真の姿。
皮膚さえ見えず、イザヤに繋げられているその灰色。
「・・・」
ふっ、と目を開く。
凭れかかっている壁は、真が眠っている部屋のドアでもある。
わずかな血圧値の乱れがあったのだ。
だがそれは、ほとんど正常値に近い値まで上がっただけで、異常を知らせるものではない。
籬はそっとドアの取っ手を引いて、室内に足を踏み入れた。
蛍光灯が点いているなか、真はベッドに腰かけてぼんやりと天井を見上げている。
「あ…」
こちらに気付いたのか、視線をゆっくりと合わせた。
「籬…いたんだ」
「…ああ」
「ご、ごめんね」
「何故謝る」
「・・・」
突き詰めるつもりはなかったが、結局は責めるような口調になってしまう。
俯いた真は、赤い目をより一層赤くさせて、真っ白な入院着のズボンに手をあてた。
沈黙が流れてゆく。
「…貴殿は、承知しているのか?」
「なにを?」
「イザヤに潜る事を」
「・・・」
再び俯き、ちいさくうなずく。
その姿はあまりにもちっぽけだった。
「イザヤは、大事なものだから。でも、おれはいいんだ。別に、もうすぐ用無しになるんだし」
「…用無し?」
か細くなった語尾でも、籬はその聴覚で拾う。
俯いたまま、足をぶらぶらと遊ばせている真のその足には、痛々しく包帯が巻かれていた。
「・・・」
特別、いじけているようでも、達観しているようでもなく、ただただ淡々とくちびるを開く。
「おれはね、父さんや兄さんみたいに強くない。元々、そういう体質なんだ。ほら、おれはアルビノだからさ、そんなに体も丈夫じゃない。でも父さんは国の偉い人だから、おれに役目を与えてくれた」
「・・・」
ちいさく笑うも、籬は笑ってなどいない、と感じていた。
なぜかは分からない。
だが、確かに真は笑ってはいなかった。
そう、直感する。
それと同時に、「狼狽」する。
何故、とか、どうして、とか。そういう類いだ。
それは籬がどう計算しても、問いが出ない。
「未来の人ための、礎になること。それが父さんがおれに与えてくれたお役目」
「・・・」
「理解、してくれた?」
真は悪戯っぽく両目を細めて、そっと微笑む。
しかし、籬は――
イコールを未だに見出せないでいた。
「だからね、イザヤが完成するまでおれは死ねない。だから、籬を雇ったんだよ」
「用無しとは、何だ?用無しとは、自分たちが動かなくなったときに使う言葉だ。人間は、用無しにはならないと聞いた」
そうだ。
用無しと言う言葉は、遺物に負け、動かなくなって死んだときに初めて使われる言葉だ。
籬はそう認識している。
「籬だって、用無しにはならないよ」
「・・・」
「籬はすごい。だって、おれを担いで跳べるんだから。おれ、初めて地面をあんな遠くに見たよ!」
うれしそうに笑うその頬は、興奮からかわずかに紅潮していた。
まるで、自分の事のように誇ることができる真を、籬は無表情のまま見つめる。
なぜか分からない。
何を誇れる事ができるのだろう。
己を誇ろうとする事もせずに、ただ、ただ。
「あんなもの、誇れるようなものではない」
「…そうなの?」
「…ああ。自分は、兵器だ。兵器は、傷つけるためにある」
「違うよ」
籬にとっての当たり前である持論を、あっさりと否定した。
真っ白な髪をゆらしながら、腕に刺さっている点滴の針を見下ろしながら、ちいさな声でささやく。
「籬は、傷つけるためだけにあるんじゃない。だって、さっき言ったでしょ?『誇れるようなものではない』って」
はっ、と顔を上げる。
何故自分がそんな事を言ったのか分からない。
まるで、口をついたように出たのだ。
「籬だって、ちゃんとした心を持ってる。持ってるから、そんな事をいえるんだよ」
「自分に、心など…」
「おれにはないものを、持ってる」
それは、教えてもらっていないはずの「うらやむ」ような声色だった。




