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第5章 静かな引力 前編

10月 土曜日。



貴重な休日。


俺は蒼司の個展を見に行くため、神楽坂へ向かった。



会場は、小さなギャラリー。


決して広くはないけれど、その空間いっぱいに、


蒼司の“青い蒼い絵”が並んでいた。



深さの違う青。


静かな青。


胸の奥まで沈み込んでくるような青。



いくつかの作品には、


「売約済み」の札が貼られている。



……すげぇな。



素直に、そう思った。



視線を巡らせていると、奥の方から蒼司がこちらに気づいた。


「カイト、来てくれたんだ」


「ああ。……すごいな。売れてる絵もあるんだな」


蒼司は少し照れたように笑う。


「たまたまだよ。一枚も売れないときの方が多いから」


そう言いながら、俺の隣に立つ。


「カイト。気に入った絵があったら……どれか、あげようか?」


「え?」


思わず、展示された絵を見渡す。


「うーん……全部、好きだな」


正直な気持ちだった。



でも――


その中で、視線が止まった一枚があった。


「あ」


指さしたのは、


あの黄色いかぼちゃのオブジェが描かれた海の絵。


「これがいい」


「わかった」


即答だった。


「……じゃあ、俺、買うよ」


そう言うと、蒼司はくすっと笑った。


「カイトから、お金はいらない」


「でも‥‥」


「うん」



一拍置いて、そう言ってから。



「じゃあ、この絵。


個展が終わったら、カイトの家に持って行く」


「……え。俺の家に?」


一気に心臓が跳ねる。


「うん」


当たり前みたいに、蒼司はうなずいた。



胸の奥が、じんわりと熱くなる。


ドキドキしているのが、たぶん――顔にも出ていた。



俺はそれからしばらく、蒼司の絵を眺めていた。


やっぱり、好きだな。


蒼司の絵。


キャンバスに向かい、静かに筆を走らせる蒼司の姿が、自然と頭に浮かぶ。


ああやって、一枚一枚、自分だけの”蒼”を描いてきたんだろう。



ふと視線を向けると、


蒼司のまわりには、いつの間にか人が集まっていた。



蒼司は一人一人に向き合いながら、


言葉を選ぶように、丁寧に絵の説明をしていた。


その横顔を見ていると、胸の奥が、じんわりと温かくなる。



――好きなことを仕事にしている姿は、


こんなにも、まっすぐで、きれいなんだな。


心なしか、若い女性が多い気がする。


「インスタ、見ました!」


「握手してもらってもいいですか?」


「いつも応援してます!」


そんな声が、あちこちから聞こえてくる。


蒼司は少し照れくさそうに笑いながら、


一人ひとりに丁寧に応えていた。



(……すごいな)



そう思う反面、


胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。


自分でも、その理由はよくわからない。


嬉しいはずなのに、なんとなく落ち着かない。



しばらく待って、人が途切れたタイミングで蒼司に近づいた。


「お疲れ。すごい人気だな」


蒼司は困ったように笑う。


「ううん。こんなに人が来てくれて……正直、びっくりしてるよ」


「それだけ、蒼司の絵が認められてきたってことだろ」


「そうかな」


蒼司は少し照れたように笑った。


「全然、実感ないよ」


その笑顔を見ていると、さっきまで胸の中にあったざわつきが、少しだけやわらいでいく。


「……じゃあ、俺、帰るわ」


「うん」


蒼司は優しくうなずいた。


「今日は来てくれて、ありがとう」


俺は軽く手を上げて、ギャラリーをあとにした。


外に出ると、神楽坂の空気は、少し冷たかった。



でも、胸の中は、不思議なほど、あたたかかった。



* * *



俺はそのまま岩槻の実家に寄っていた。


親に頼まれていた用事を済ませて、


そのまま近くのコンビニへ歩いて向かう。



何気なく進んだその先に――


蒼司と、竜司の実家がある。



俺は視線を逸らし、そのまま横を素通りしようとした。


そのとき、庭の奥に、人影が見えた。



背が高くて、がっしりとした体格。



――まさか。



竜司‥‥



一瞬、足が止まる。



あ。



向こうも、こちらに気づいた。



あ。



目が合う。




時間が、一瞬だけ止まった気がした。


何年も会っていなかったはずなのに。


あの日と変わらない、その真っ直ぐな視線が、まっすぐ俺を捉えていた。


――なんで、今。


胸が小さく鳴る。


俺は動けないまま、竜司を見つめ返していた。


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