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第1章 動きだす時間 前編


青柳蒼司が、数年ぶりに帰ってきた。




昨日、俺に――




「俺は、カイトのことが好きだよ」




そう、はっきりと言った。


曖昧でも、冗談でもなかった。


逃げ道のない、まっすぐな言葉だった。




その一言で、俺たちが積み重ねてきた時間も、すれ違ってきた想いも、全部、同時に思い出した。



これは、あの頃の続きを生きる物語だ。



海斗と蒼司が、同じ海を見つめながら、


それでも違う場所に立っていた、


その“先”の話。



* * *


朝練。



俺がグラウンドに着くと、もう佐伯青がいた。


俺の後輩であり、元教え子でもある。


青はいつも、俺より早く来て、


グラウンドの準備をしている。それが、あいつの日課だった。


「……おはよう、佐伯」


「佐々木先生、おはようございます」


「……いつも早いな」


自分でもわかる。


声に、まったく張りがない。


昨日は、ほとんど眠れなかった。


「佐々木先生、大丈夫ですか?」


「え?」


「最近、元気ないっていうか……上の空というか」


「そうか。まぁ、ちょっとな……」


青は心配そうに、俺の顔を見つめていた。


「……そうですか」


何か言いたげな表情だった。


でも、それ以上は何も聞かずに言葉を飲み込む。


俺も、その視線の意味には気づいていた。


それでも、気づかないふりをした。



「さっ、今日も頑張らなきゃな」



そう言って、俺はグラウンドへ視線を向けた。



――今日も、一日が始まる。



球児たちの声が響き、


グラウンドはいつものように活気づく。


朝は軽めのランニング。


ストレッチ中心のメニュー。



そんな中、フェンスの向こうを歩く姿が目に入った。


岡谷蒼太が、大学へ出勤するところだ。



蒼太が手を振る。


それに、青が笑顔で応える。


二人の左手の薬指には、同じ指輪が光っていた。


佐伯青と岡谷蒼太は、職員宿舎で一緒に暮らしている。


生涯をともに歩むことを誓った、かけがえのないパートナー。


そんな二人の姿は、もう学校では見慣れた光景になっていた。


……の、はずだった。


蒼太の隣に、今日はもう一人、立っている。



(……蒼司)



その姿を認識した瞬間、胸が、ドキッと跳ねた。


俺は無意識に、隣に立つ青と、少し距離を取ってしまう。


フェンス越しに、蒼太と蒼司が、何かを話している。



声は届かない。


(……何、話してるんだろう?)


理由もなく、胸の奥がざわついた。



「佐々木先生、どうしました?」


「え?」


「やっぱり、調子悪いんじゃ……」


青は、俺がフェンスの向こうにいる蒼太と蒼司を、じっと見つめていたことに、気づいたようだった。


俺はハッとして、慌てて視線を逸らす。


「いや……岡谷、元気そうだなって」


「はい。大学事務職員の仕事も、だいぶ慣れてきたみたいです。」


「先輩の松本さんの話、家でもよくしてくれますよ」


「……そうか」


それだけしか返せなかった。


俺らしくない。


話題が続かない。


青は少し考えるような表情をすると、ふと口を開いた。


「そういえば、最近入った青柳先生……」


「今日、珍しく早いですね」


「そうか?」


青は少しだけ首をかしげた。


「……佐々木先生、青柳先生とお知り合いなんですか?」


「えっ?」


思わず声が裏返る。


青は昔から洞察力に優れ、勘がいい。


ちょっとした変化も見逃さない。


「ああ……実は、ちょっとな」


「そうなんですか」


「この前、美術準備室の前を通った時、青柳先生が絵を描いてるのが見えて……」


「それで、少し見させてもらったんですけど……」


「なんか、すごくて。」


「あんな綺麗な青、見たことないっていうか……なんか、感動しちゃいました」


「そうか。佐伯もそう思うか」


気づけば、俺は少し身を乗り出していた。


「俺も、昔から好きでさ」


思わず声が大きくなる。


その瞬間――


「コホン」


ベンチの方から、監督がわざとらしく咳払いをした。


「……あっ、ヤバい」


思わず小さくつぶやく。


青はその様子を見て、


「ふふっ」


と、楽しそうに笑った。


俺も照れ隠しをしながら笑ってしまう。


さっきまで胸の奥に重くのしかかっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。



* * *



俺は、蒼司と話がしたかった。


その機会を、ずっとうかがっていた。


蒼司は職員室にいることが、ほとんどない。


空き時間は、美術準備室で絵を描いたり、授業の準備をしたりして過ごしていることが多かった。



昼休み。


昼休みは、体育準備室で青と昼飯を食べるのが日課だ。


青は毎日、自分で弁当を作ってくる。


一方、自炊が苦手な俺は、注文した弁当や購買で買ったパンで適当に済ませることが多い。


授業のこと。


野球部のこと。


それから、お互いのプライベート。


青との会話は、いつも自然と弾んでいた。


ある日。


俺は昼飯を急いでかき込み、美術準備室へ向かった。


意を決して扉を開ける。


……誰もいない。


蒼司の姿はなかった。


蒼司は臨時採用の美術教師だ。


授業がある日だけ出勤し、日によっては午前中だけで帰ることもある。


「……タイミング悪いな」


小さくつぶやき、体育準備室へ戻った。


「あっ、佐々木先生。お帰りなさい」


「ああ。ただいま」


「急いで出かけた割には、早かったですね」


「ああ。大した用事じゃなかったからな」


何事もなかったように答え、いつものように雑談が始まる。


すると青が、ふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、青柳先生……」


「今度、美術部の顧問になるそうですよ」


「えっ、そうなんだ」



——それなら。


部活動がある日の夕方なら、学校に残っている。


そんな考えが頭をよぎる。


ふと顔を上げると、青と目が合った。


……もしかして。


勘づかれたか。


一瞬そう思った。


けれど青は、いつもと変わらない穏やかな表情のまま、何も言わずパソコンへ視線を戻した。


* * *


ある日の放課後。




俺はブルペンで、投球練習を見ていた。


「よし。いい感じだな」


声をかけると、エースは小さく頷く。


「あとは、ゆっくりダウンして休め」


「はい。ありがとうございます」


時計を見ると、十九時。


練習は、予定どおり終了だ。




片付けの声が響くグラウンドを背に、俺は校舎の方を見る。




――あそこが、美術準備室。




まだ、明かりがついている。


胸の奥が、わずかにざわついた。




……と、その時。




ふっと、その明かりが消えた。


俺は、片付け途中の青に声を掛ける。


「佐伯。悪いけど、今日はこのあと頼んでいいか」


一瞬だけ、青は驚いた顔をした。


「はい。もちろんです」


そして、いつもの表情に戻り。


「……お疲れさまです」


「頼む」


それだけ答えて、俺はグラウンドを後にした。



* * *




校舎を出てくる蒼司の姿が見えた。


「……帰るのか」


自分でも、少し硬い声だと思った。


「お疲れさまです、佐々木先生」


蒼司は足を止めた。


「……今日、遅いな」


自分でも、少し柔らかい声だった。


蒼司は照れたように小さく笑う。


「今日は美術部の講評会だったから」


「終わってから、少し自分の絵を描いてたら……気づいたらこんな時間になってた」


「はは。」


思わず笑みがこぼれる。


「絵のことになると、時間忘れるのは相変わらずだな」


その言葉に、蒼司の表情がふっと柔らかくなった。


「そうだね……」


「……これしか取りえないしね」


「そんなことないだろ」


そう言いかけた言葉を、俺は飲み込む。




今は、もっと伝えたいことがあった。


一瞬、沈黙が流れる。




断られるかもしれない。


でも、このまま帰したくなかった。


俺は意を決して口を開く。


「……送ってく」


少し間を置いて続ける。


「……乗れよ」


蒼司は驚いたように俺を見つめる。


やがて、小さく頷いた。


「……うん」


蒼司はただ小さく頷いて、助手席のドアを開けた。


黙ったまま、車に乗り込む。


エンジンをかける音だけが、夜の校舎前に響いた。


「家まで送る」


「駅まででいいよ」


「大宮だろ。そこまで行く」


「……わかった」



ゆっくりと車が走り出した。


止まっていた俺の時間も、


この夜とともに、


また少しずつ動き始めていた。


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