人が求めるもの・・・?
人は、他者を必要として生きているのだろうか。
それとも、不便だから仕方なく関わっていただけなのだろうか。
本来、人には二つの強い欲求がある。
自分を守りたいという自己保存と、
今の状態を維持したいという安定への欲求である。
他者はそのどちらにとっても、異物に近い。
予測できず、思い通りにならず、時に深く侵入してくる。
だから人は、本質的には他者を避ける方向へと傾いていく。
しかし同時に、人は飽きる。
どれほど満たされ、どれほど安全であっても、
変化のない状態はやがて感情の振れ幅を奪い、
生きている実感を希薄にしていく。
そのとき人は、無意識のうちに何かを求める。
それは快楽ではなく、安定でもなく、
むしろそれらを壊すものだった。
それは、他者と、そこにしか生まれない危機感だった。
他者は、理解できず、衝突し、傷を残す。
だがその不確実さこそが、
停滞した自己に亀裂を入れ、
再び生の実感を呼び起こしていたのかもしれない。
けれど技術は、その必要すら薄めていく。
欲求は個人の内部で完結し、
孤独は感じられず、
危険を伴わない満足が常に供給される。
人は他者に触れる理由を失う。
そして、他者によって壊される機会もまた、失われる。
結果として残るのは、
満たされたまま孤立する個体である。
そこには欠乏もなければ、強い衝動もない。
誰かを強く求める理由もなく、
新たな関係を築く必然もない。
そのとき、子どもを持つという選択もまた、
自然に遠ざかっていく。
こうして世界は、
争いも崩壊もなく、ただ静かに、確実に、縮小していく。
誰もそれを止めようとはしない。
止める理由が存在しないからだ。
人は人を嫌っているわけではない。
ただ、他者によって乱されることを避け、
安全な満足を選び続けた結果、
自分を壊す機会を手放した。
そしてその先にあるのは、
誰も求めないまま、ゆるやかに消えていく世界である。
あとがき
もし仮に、人が現状に飽きることのない存在であったなら、
あるいは飽きを完全に満たし続ける何かが存在したなら、
人はもはや他者を必要としないのかもしれない。
そのとき少子化は問題ではなく、
むしろ当然の帰結として、
少子化はさらに加速していくのだろう。
それでもなお、
試行錯誤の末に生まれた技術に対して、
私は「飽きる」というだけで、抗えるのだろうか・・・?




