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境界の向こう側

まえがき


本作はフィクションです。


登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在するものとは一切関係ありません。


また、本作は犯罪や私的制裁(復讐)を肯定・推奨することを目的としたものではありません。

判決が言い渡された瞬間、法廷は静まり返っていた。

「被告人を懲役十五年に処する。」


父親は、ただうなずいた。


傍聴席には、二つの家族がいた。

一つは、幼い娘を殺された父親の家族。

もう一つは、その父親に殺された男の家族だった。


世間は父親をどう呼べばいいのか迷っていた。

「復讐を遂げた父親。」

「感情を抑えられなかった殺人犯。」

新聞も、テレビも、言葉を選びかねていた。


事件の始まりは、一年前だった。

娘は学校から帰る途中で殺された。

現場近くでは、争ったような跡だけが残り、犯人は逃走した。


唯一の手がかりは、一人の目撃者だった。

「隣の家の男が、現場から慌てて走り去るのを見ました。」

その証言だけだった。


男は事情聴取を受けたが、決定的な証拠は出なかった。

本人は一貫して否認した。

「現場の近くを通っただけだ。」


警察は捜査を続けていた。

だが父親には、その時間すら耐えられなかった。


ある夜、男が仕事から帰る道を待ち伏せし、刃物で刺した。

抵抗する暇もなかった。

男は、その場で息を引き取った。


死ぬ直前まで、

「俺じゃない。」

と繰り返していたという。


しかし、男の部屋からは娘のものとよく似た髪の毛が見つかった。

衣服からも、事件現場と一致する土が検出された。

それでも決定打にはならなかった。

髪は鑑定できるほど状態が良くなく、土も珍しいものではない。

男が犯人だった可能性は高い。

しかし、無実だった可能性も最後まで消えなかった。


だから事件は終わらなかった。

娘の家族から見れば、男は犯人だった。


男の家族から見れば、父親は殺人犯だった。


被害者と加害者は、鏡を向かい合わせたように立っていた。


刑務所へ送られた父親は、最初の数か月、誰とも話さなかった。

自分は被害者だ。

そう思っていた。


ある日、工場作業の休憩時間に、一人の老人が隣へ腰を下ろした。

老人は二十年以上服役している受刑者だった。


「何年だ。」


「十五年。」


「何をやった。」


父親は黙っていた。


老人はそれ以上聞かなかった。


数日後、父親の方から口を開いた。

「娘を殺された。」


老人は黙って聞いていた。


「犯人だと思った男を殺した。」


老人は、少しだけ目を閉じた。


「そうか。」


その返事が気に入らなかった。


「そうか、で済む話じゃない。」


老人は静かに言った。


「ここじゃ珍しくない。」


父親は腹を立てた。


「俺はあんたらとは違う。」


老人は笑わなかった。


「みんな最初はそう言う。」


沈黙が流れた。


父親は拳を握った。


「俺は被害者だ。」


老人は窓の外を見たまま、小さく言った。


「その人の家族も、お前をそうは思ってない。」


その一言だけが、胸に刺さった。


夜になっても消えなかった。


男には妻がいた。

高校生の息子もいた。

あの日、自分が刃物を振るった瞬間、あの家族にも突然、理由の分からない喪失が訪れた。

判決が言い渡された瞬間、法廷は静まり返っていた。

「被告人を懲役十五年に処する。」


父親は、ただうなずいた。


傍聴席には、二つの家族がいた。

一つは、幼い娘を殺された父親の家族。

もう一つは、その父親に殺された男の家族だった。


世間は父親をどう呼べばいいのか迷っていた。

「復讐を遂げた父親。」

「感情を抑えられなかった殺人犯。」

新聞も、テレビも、言葉を選びかねていた。


事件の始まりは、一年前だった。

娘は学校から帰る途中で殺された。

現場近くでは、争ったような跡だけが残り、犯人は逃走した。


唯一の手がかりは、一人の目撃者だった。

「隣の家の男が、現場から慌てて走り去るのを見ました。」

その証言だけだった。


男は事情聴取を受けたが、決定的な証拠は出なかった。

本人は一貫して否認した。

「現場の近くを通っただけだ。」


警察は捜査を続けていた。

だが父親には、その時間すら耐えられなかった。


ある夜、男が仕事から帰る道を待ち伏せし、刃物で刺した。

抵抗する暇もなかった。

男は、その場で息を引き取った。


死ぬ直前まで、

「俺じゃない。」

と繰り返していたという。


しかし、男の部屋からは娘のものとよく似た髪の毛が見つかった。

衣服からも、事件現場と一致する土が検出された。

それでも決定打にはならなかった。

髪は鑑定できるほど状態が良くなく、土も珍しいものではない。

男が犯人だった可能性は高い。

しかし、無実だった可能性も最後まで消えなかった。


だから事件は終わらなかった。

娘の家族から見れば、男は犯人だった。


男の家族から見れば、父親は殺人犯だった。


被害者と加害者は、鏡を向かい合わせたように立っていた。


刑務所へ送られた父親は、最初の数か月、誰とも話さなかった。

自分は被害者だ。

そう思っていた。


ある日、工場作業の休憩時間に、一人の老人が隣へ腰を下ろした。

老人は二十年以上服役している受刑者だった。


「何年だ。」


「十五年。」


「何をやった。」


父親は黙っていた。


老人はそれ以上聞かなかった。


数日後、父親の方から口を開いた。

「娘を殺された。」


老人は黙って聞いていた。


「犯人だと思った男を殺した。」


老人は、少しだけ目を閉じた。


「そうか。」


その返事が気に入らなかった。


「そうか、で済む話じゃない。」


老人は静かに言った。


「ここじゃ珍しくない。」


父親は腹を立てた。


「俺はあんたらとは違う。」


老人は笑わなかった。


「みんな最初はそう言う。」


沈黙が流れた。


父親は拳を握った。


「俺は被害者だ。」


老人は窓の外を見たまま、小さく言った。


「その人の家族も、お前をそうは思ってない。」


その一言だけが、胸に刺さった。


夜になっても消えなかった。


男には妻がいた。

高校生の息子もいた。

自分は確かに娘を失った。

だが、自分もまた別の家族から父親を奪った。

どちらが先だったか。

それだけの違いだった。


数年後。

刑務所の図書室で、父親は刑法の本を読むようになった。

「刑罰の目的」

という章を何度も読み返した。


被害者のため。

加害者のため。

社会秩序のため。

更生のため。

どれも間違ってはいないように見えた。


だが、どれもしっくりこなかった。

ある夜、布団の中で、不意に思った。


あの日。


もし刃物を持っていなかったら。

もし誰かに止められていたら。

もし自分が警察に捕まっていなかったら。


次に、自分は何をしていただろう。


男の家族を憎んでいたかもしれない。

目撃者を恨んでいたかもしれない。

事件を担当した刑事を責めていたかもしれない。

怒りには、終わりがなかった。


人は一度、境界を越えると、自分でも自分がどこまで行くのか分からなくなる。

その瞬間、父親は初めて、自分に下された判決の意味を理解した気がした。


刑務所は、遺族を慰めるための場所ではない。

加害者を苦しめるためだけの場所でもない。

社会を守るため。

もちろん、それもある。

だが、それだけではない。

一度境界を越えてしまった人間が、もう一度同じ境界を越えないように。


人間は、自分自身の危うさを、自分で完全には制御できない。

だから社会は、法という冷たい仕組みを作った。


それは人間を信じているからではない。

人間を、あまりによく知っているからだ。

父親は窓の外に見える細い空を見上げた。


娘はもう帰ってこない。

自分が殺した男も帰ってこない。

失われた命は、どちらも同じ重さだった。


判決は、自分を救うためではなかった。


誰かを慰めるためでもなかった。


ただ、この世界に「三人目」を生まないためにあったのだと、そのとき初めて思えた。


あとがき


この作品で描いた考え方は、あくまで物語の登場人物がたどり着いた一つの解釈であり、私自身が「刑務所はそのために存在する」と断定するものではありません。


私は、人間は強い感情や極限状態の中で、自分でも予想できない行動を取ってしまうことがあるのではないか、と考えることがあります。そして、一度その境界を越えた人が、同じような状況で再び過ちを犯す可能性についても、決してゼロとは言い切れないのではないか、と感じています。


もちろん、実際の刑罰や刑務所の目的は、被害者への応報、社会の安全、犯罪の抑止、更生など、さまざまな理念や制度の上に成り立っています。この作品は、そのどれか一つが正しいと主張するものではありません。


この物語を通して伝えたかったのは、「刑罰は誰のためにあるのか」という問いに、唯一の答えはないのではないか、ということです。


もし読者の方が、この作品を読み終えたあとに少しだけ立ち止まり、自分なりの答えを考えてくださるなら、作者としてこれ以上うれしいことはありません。この作品で描いた考え方は、あくまで物語の登場人物がたどり着いた一つの解釈であり、私自身が「刑務所はそのために存在する」と断定するものではありません。


私は、人間は強い感情や極限状態の中で、自分でも予想できない行動を取ってしまうことがあるのではないか、と考えることがあります。そして、一度その境界を越えた人が、同じような状況で再び過ちを犯す可能性についても、決してゼロとは言い切れないのではないか、と感じています。


もちろん、実際の刑罰や刑務所の目的は、被害者への応報、社会の安全、犯罪の抑止、更生など、さまざまな理念や制度の上に成り立っています。この作品は、そのどれか一つが正しいと主張するものではありません。


この物語を通して伝えたかったのは、「刑罰は誰のためにあるのか」という問いに、唯一の答えはないのではないか、ということです。


もし読者の方が、この作品を読み終えたあとに少しだけ立ち止まり、自分なりの答えを考えてくださるなら、作者としてこれ以上うれしいことはありません。

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