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誰の物差し

まえがき


これは数学の本を読んでいるときに思いついた、「合理性」と「非合理性」とは単なる視点の違いに過ぎないのではないか、という予感を土台にした物語です。


数学とは、いわば緻密に組まれた螺旋階段のようなものです。検証に検証を重ね、「ある条件のとき」という厳密な前提があって初めて、一つの真理が成立します。

数学という世界は、その前提を疎かにしない誠実さによって支えられています。

往々にしてその前提は「当たり前」として省略されますが、本来「1が2と書ける世界」も存在し得ます。


しかし、もし人々がそれぞれの世界で「1」という文字を違う意味で使っていたら、文明を積み上げるためのコミュニケーションは破綻してしまいます。

だからこそ、数学はあえて個別の事情を捨て去り、表記を統一するという道を選びました。


それは認識の違いを「前提」でひっくるめ、世界統一の言語となるための、切実な知恵だったのかもしれません。


翻って、私たちの生きる現代はどうでしょうか。

前提となる個々の事情や背景を省略し、ただ効率的な「数字」としての結果だけを求める。

コスパやタイパという言葉で世界を切り取る。

それは、数学が本来持っているはずの「前提」という土台を失った、ひどく脆い合理性なのかもしれません。


この物語を通じて、数字という物差しの裏側に隠された、誰かの「前提ロジック」に思いを馳せていただければ幸いです。

深夜二時、タクシー運転手の老人は、目的地まであと数百メートルの街灯もない十字路で車を止めた。


「客さん、悪いけどここで降りてくれないか」


乗客の青年は、スマホの地図とメーターを交互に見た。

「えっ、まだ着いてませんよ。あと三分走れば着くのに、なぜ?」

青年の中の『数字の合理性』が警報を鳴らす。

深夜料金、最短ルート。ここで降りる理由は一つもない。非合理の極みだ。


しかし、老人は静かにハンドルを握り直した。

「この先、一匹の猫がいつも寝てるんだ。今夜は月が綺麗だから、あいつはきっと道の真ん中で腹を出して寝ている。車で行けば、あいつを起こして、最悪、轢いちまうかもしれない」


青年は呆れた。

「猫一匹のために売上を捨てるんですか? 全く合理的じゃない」


老人は、少しだけ口角を上げた。

「あんたの言う通りだ。数字で見れば俺はバカだな。でもね、俺にとっては『あいつの眠りを邪魔しないこと』の方が、百円や二百円の売上よりずっと筋が通ってるんだよ」


青年は舌打ちをしながらも、代金を置いて車を降りた。ドアが閉まる音。遠ざかるテールランプ。歩き出すと、確かに数メートル先、街灯のスポットライトを浴びた三毛猫が、道路の真ん中で幸せそうに腹を見せて眠っていた。青年は、その猫を避けるために一歩大きく回り道をした。効率を考えれば無駄な歩数だ。しかし、猫の寝顔を見た瞬間、彼の中の「損得」という物差しが、ふっと別の何かに置き換わった。


「……まあ、いいか」暗闇の中、青年は自分でも説明のつかない、けれど確かな『納得感』という合理性を抱えて、家路を急いだ。



あとがき


あなたは、どちらの視点を持ちますか?


猫が好きなら運転手の視点・・・?

目的地を急ぐなら乗客の視点・・・?


その視点に自分を重ねるかもしれません。

しかし、本当に大切なのは、どちらが正しいかではなく「どちらの視点を、今の自分が選んでいるか」に気づくことだけなのかもしれません。


「合理・非合理とは、ある特定の単一視点(主に数字や効率)で切り取った際の結果でしかない」つまり、世間が言う「非合理」は、単に「数字という物差し」に合わないだけ。


しかし別の視点で見れば、そこには必ず本人なりの「ロジック」が通っています。


結局、この世に絶対的な非合理など存在せず、あるのは「視点の違い」だけ。


数字に溢れた世界で、不意に「非合理」のラベルを貼られそうになったとき、この「視点の多層性」を思い出せれば、私たちはもう少し、自分の心に素直に、自由になれるはずです。


そして、もしかしたら。本当の非合理とは、この割り切れない矛盾を抱えたまま、どちらの視点も捨てずに立ち続ける、その静かな覚悟のことなのかもしれません。

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