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逃げ場のないやる気

まえがき


集中には、二通りあるのかもしれない。


ひとつは、音が消えるような集中。

もうひとつは、音が残ったまま続く集中。


これまで自分は、前者こそが集中だと思っていた。


周囲の音を遮断し、自分の内側だけに入り込むこと。

それが正しい状態だと、どこかで信じていた。


けれど今思えば、その状態は、

ただ深く入り込んでいたのではなく、

何かから距離を取ろうとしていたのかもしれない。


現状から逃げたいという感覚と、

集中しているという感覚が、

同時に成り立っていた可能性がある。


だからこそ、集中しているはずなのに、

どこにも進めていない、という状態が生まれていたのかもしれない。


これは断定ではない。

ただ、自分の中で起きていたことを、

そう考えると、少しだけ辻褄が合う気がしている。



速く、と思っている。

ずっと前から、速くしなければいけないと思っている。


遅いと、取り残される気がするからだ。

理由ははっきりしない。ただ、そうならないようにと、どこかで決めてしまった。


手は動いている。

キーボードを叩いている感触もあるし、画面も見ている。

それなのに、何も進んでいない。


文章は途中で止まり、考えは途中で途切れる。

さっき何をしようとしていたのか、思い出そうとするほど遠ざかる。


速く、と思う。

もっと速く。無駄をなくして、一直線に。


その瞬間、音が消える。


周囲で誰かが話しているはずだ。椅子が引かれる音も、空調の低い唸りも、本当はある。

けれど、それらはすべて、水の向こう側の出来事のようにぼやけていく。


集中している、のだと思う。

これが集中なのだと、どこかで信じようとしている。


でも違う。


気づきかけて、すぐに打ち消す。

考えている時間があれば、その分だけ遅れる気がするからだ。


速く。速く。速く。


頭の中で言葉だけが繰り返される。

そのわりに、思考は進んでいない。


ただ、同じ場所をなぞっているだけだ。


――何をしているんだろう。


ふと、そんな言葉が浮かぶ。

珍しく、止まった思考の隙間から出てきたものだった。


その一瞬だけ、音が戻る。


遠くの会話。

紙をめくる音。

誰かの小さなため息。


それらはすぐにまた遠ざかる。


戻ってきた速さが、それらを押し流してしまう。


違う、と思う。

何かが違う。


速くなっているわけではない。

むしろ、どこにも進めていない。


それでも手は止まらない。

止める理由がないからだ。


やる気はある。

それだけは、はっきりしている。


やらなければいけない、という感覚も消えていない。

むしろ強くなっている。


だから止まれない。


逃げ場がない。


やる気だけが、ここに残っている。


それは前に進む力ではなく、

同じ場所に縫い止める力のようだった。


――一度、止まればいい。


どこかでそんな考えが浮かぶ。

けれど、その方法がわからない。


止まることは、遅れることだ。

遅れることは、取り残されることだ。


そう決めたのは自分のはずなのに、

その決まりから抜ける術がない。


画面の文字は増えていない。

時間だけが過ぎていく。


それでも、やめられない。


やる気が、ここにあるからだ。


逃げ場のないやる気が、

ずっと、ここにあるからだ。


あとがき


何もできなかった。


目覚ましが鳴り、起き上がろうとした瞬間、

ふと、思った。


結局、自分の弱さが原因なんだと。


そう考えた瞬間、

目の前が真っ暗になった。


音も、光も、すべてが消えた。

そのまま、意識を失った。


――次に目を開けたとき、白い天井があった。


病院だった。


しばらくしてから、気づいた。


音が、聞こえる。


誰かの話し声。

機械の規則的な音。

遠くで何かが動く気配。


どれも特別なものじゃないのに、

ひどく久しぶりに感じた。


そのとき、ふと思い出した。


似顔絵を描いているときのことを。


あのときは、音が消えていたわけじゃなかった。

周りの気配を感じながら、ただ手が動いていた。


速くやろうとも思っていなかったし、

自分のことも、あまり考えていなかった。


ただ、描いていた。


それが良い状態なのかどうかは、わからない。

けれど、少なくとも、ここで感じているものと、よく似ていた。


そのとき、肩の力が抜けていることに気づいた。


何かを速くやろうとも、

遅れまいとも、思っていなかった。


ただ、そこにいた。


それだけで、十分だった。


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