前に傾く日
気づいたのは、ほんの些細なことだった。
考えが止まらないとき、いつも首が前に出ている。
パソコンの前でも、スマホを見ているときでも、なぜか少しだけ前に傾いている。糸で引っ張られるみたいに、顔が世界に近づいていく。
そのとき、決まって同じことを考えている。
「あれは失敗だったんじゃないか」
「もっと違う言い方があったんじゃないか」
「このままでいいのか」
思考は円を描く。
出口はない。
ある日、ふと試してみた。
椅子に深く座り直して、顎を少し引く。頭を、背骨の上に乗せるみたいに戻す。そして、ゆっくり息を吐いた。
たったそれだけだった。
でも、何かが変わった。
さっきまであれほど重要に感じていた考えが、少しだけ遠くに行った。
消えたわけじゃない。
ただ、「今じゃなくてもいい」と思えた。
その瞬間、奇妙な感覚があった。
もしかして――
さっきまでの思考は、「自分」が考えていたんじゃないのかもしれない。
ただ、身体がそういうモードに入っていただけで、
その状態にふさわしい考えが流れていただけなんじゃないか。
前に傾けば、世界は狭くなる。
呼吸も浅くなって、視界も内側に沈む。
その中で浮かぶ考えは、だいたい似ている。
問題、後悔、まだ起きていない不安。
でも、身体を戻すと、
考えも少しだけ、形を変える。
広がるわけじゃない。
ただ、固まらなくなる。
「全部、本気で考えなくていいのかもしれない」
そう思ったとき、少しだけ楽になった。
考えを止める必要はない。
ただ、前に傾きすぎているときは、
その考えは少し疑っていい。
それからというもの、
考えがぐるぐるし始めたとき、彼はまず首の位置を確認するようになった。
そして、静かに戻す。
思考ではなく、姿勢から。
それだけで、
世界はほんの少しだけ、違って見えるようになった。
あとがき
反芻思考は、もしかすると姿勢が関係しているのかもしれない——
そんな感覚に気づいたことが、これまでに何度かありました。
けれど、忙しさの中でそれは簡単に忘れてしまい、気づけばまた同じ状態に戻っています。
前に傾いたまま、同じことを繰り返し考えている。
ただ、不思議なことに、少し余裕があるときに姿勢や呼吸に意識を向けると、今度は別のことに気づきます。
どうやっても、身体に力が入っている。
抜こうとしても、どこかが緊張している。
その感覚は、少し居心地が悪いものでもありますが、同時に、自分の身体をはじめて「ちゃんと認識している」状態にも近い気がしています。
もしかするとこれは、自分にとって一種の小さな儀式のようなものなのかもしれません。
思考を変えるためではなく、
自分の状態に戻るための。
そしてそのときだけ、考えは少しだけ静かになります。
それが答えなのかどうかは、まだ分かりません。
ただ少なくとも、すべての思考をそのまま信じなくてもいい、という感覚だけは、確かに残っています。
そしてもう一つ、まだはっきりとは言えないことがあります。
考えるという行為そのものが、人間にとってある種のストレスである可能性も、捨てきれないということです。
けれど同時に、どのような状態でそれを行うかによって、
自分の置かれている状況の感じ方は、確かに変わるのかもしれません。
もしそうだとしたら——
変えるべきなのは、考えそのものではなく、
その手前にある「状態」なのかもしれません。




