知っていく感情と自己紹介
マグカップから伝わってくる確かな熱を譲り受けながら、少女は記憶の中をさらう。
膨大な量の知識、本から得たもの、ここに来た時に渡され……否。放られた権利書の中に書かれていた。呼ばれたことなど一度としてない。けれど生まれたときには確かに与えられた固有名詞。
「……オニキス」
「はい」
「躑躅森・オニキス。コレの固有名詞」
名前とは個を示す名詞だ。コレと呼ばれることが常でわからないが、きっとそうなのだろう。その考えのもと、人形に間違われた少女・オニキスは名乗る。
何も言わないチャロアに、違ったのだろうかと視線を上げると。
口の周りをこげ茶色にしながら、出した舌を手で扇いでいた。涙目で。舌先が他より赤く見えるのは気の所為ではないだろう。
あれが火傷というものだろうか……。なんとなくもやもやというか、風が吹くような感覚を覚えて、勝手に出てきた息をつく。
舌を冷ましながらチャロアが「そんなに呆れないでくださいよー」と情けない声を上げた。
(これが呆れ……なら、あれはため息?)
小説を読む時に常にセットで表現される二つ。勝手に息が出ると表現したものもあったが、合っている。そう思えばなんとなく説明がつく名前(?)を名乗ったのに反応のないチャロアに『呆れ』たのだ。オニキスは。
ぼんやりと知った初めての感情に。内心挙動不審になっているオニキスに気づかず、チャロアは口を開く。
「ボクは躑躅折・チャロアです。つつじの部分が一緒ですね!」
「!!」
それと、固有名詞ではなく名前です。素敵な名前なんですから、自分のことをコレって言っちゃだめですよ。
優しく諭すように続けられた言葉が耳を素通りする。聞こえているのに覚えられない。こんなことはオニキスにとって初めてのことだった。
突然リズムを狂わせ始めた心臓が、痛いほどに暴れる。背中に氷を入れられたみたいに肩が跳ね、じっとりと気持ちの悪い汗を掻く。それなのに指先が冷えて、とっさに押さえたのは胸。マグカップを取り落として、「甘い」というらしい脳がとろける感覚をくれたココアとやらが、敷かれたマットに吸い込まれていく。跳ねた雫はオニキスの足の横に落ちた。
チャロアが目を見開いて、すぐに自分が持っていたマグカップを置いて近づいてくる。
怒鳴られるのだろうか。一瞬横切った思考のままぼんやりとチャロアを見た。まだ赤子であった頃のように、叩かれるのかもしれない。
「大丈夫ですか!? 火傷……カップが当たったりは!? 胸が痛いんですか、病院? 持病があったりアレルギー……はなさそうですけど、やっぱり病院に!」
「つつじは」
「は? いまそんなこと」
「『金銭援助をする代わりに、躑躅の名を穢してはならない。縁を頼ることは許さない。金銭以外は求めるな。有事の際は力を貸せ』……つつじなら、ここにいては、いけない」
けが、ない。今は、なんともない。だらりと細い両手を膝の上に垂らして、肩を落としたオニキス。思い出したかのように付け加えられた言葉が、今度はチャロアの耳を素通りする。代わりに頭の中で渦巻くのは先程の戒めの見かけをした、躑躅のみに都合の良い文言だ。
どれだけ。どれだけ、この子どもから取り上げれば、踏みにじれば気が済むのか。あまりの怒りに沸騰する頭と目の奥が熱くて痛い。泣くな。ここで、この場所で。怒りに涙を流していいのはチャロアではない。
散々拒絶しておいて、有事の際は力を貸せとは何だ。この子はお前たちの都合のいい道具じゃない。こんな島に追いやっておいて、都合の良いときだけ利用しようなんて。
ふざけるな。
口を引き結びながら、虚ろに目を向けてくるオニキス。その瞳の奥の、確かに寂しいと叫ぶ色に。チャロアは笑いかけた。大丈夫、安心して。語りかけるように。