少女との邂逅
「いや、いやいやいやいや。全然違います。持っていきません、喫茶店と間違えて入っただけだって」
「……わかった。これ、いちばん新しいやつ」
「なんにもわかってないじゃないですかー!」
髪を引きずる音だけさせながら、椅子の後ろに近づいて一冊の専門書を取り出すと、チャロアに向かって差し出してくる少女。
なぜここまで頑なに本を持っていかせようとするのか。半泣きで否定しつつ、こんがらがりそうな程に考えた結果。
「ま、毎日読書してるんですか? 読書家さんですね!」
話題をすり替えることにした。微妙に元の話題に掠ってないこともないが、そのわざとらしい切り口に少女はここまで何の色も映さず、何の表情も浮かべない顔のまま。自分より低い位置にあるチャロアの顔を眺めながら、ただ淡々と、質問に答えるために口を開いた。
「毎日、おなじ。本、読むいがいしらない」
頭を、強く殴られた気がした。どくり、心臓が跳ね上がって鼓動が激しくなる。
意味合いからして、毎日同じ本を読んでいるということではないだろう。「本を読むという毎日しか知らない」のでは? 先程から感じていた会話の不自然な不器用さも、会話らしい会話をしたことがないからでは? なぜ? どうして? 眼の前の少女はこんな扱いを受けなければならないのか? 息がしづらくなるような閉塞感に襲われ、チャロアは震える唇を叱咤してゆっくり開いた。それでも声は震えていたが。
きっと間違いないだろう嫌な予感に埋め尽くされる思考を抑えて。せめて、なんでもいい。救いあれと。
「毎日の繰り返しって……楽しいですか?」
「たのしい……楽しい? しって、いる。気分が良く、満ち足りたじょうたい。定義、しっている。それが?」
チャロアは救いを求めたはずなのに奈落に蹴り落とされた気分だった。
「定義を知っている」ということは、反対に言えば定義しか知らないということだ。楽しいなんて感情は本を読むことでだって得られるはずで。なのに、この少女は。子どもは、それすらも。
「本は、高価ときいた」
「……え」
「本は、高価。価値がある。コレとちがう。どこかにいけば、価値がある。どこにいっても価値がない、コレと違う」
俯きながら、本を持った手が僅かにこわばった少女。平坦な声は変わらないのに、先程までより小さい声で呟かれた言葉に頭が真っ白になってしまった。
コレ、と言う割には少女は本以外に持っているものはない。それはつまり。
コレとは少女自身のことなのだろうと、容易に見当がついた。
「本と違って、自分はどこに行っても無価値だ」そう言いたいのだと。
誰だ。
目の奥が熱くなって体が強張る。握った手に爪突き立てられて痛い。無意識のうちに歯噛みした音は幸い少女には聞こえなかったようだ。
まだ庇護されるべき幼い少女に、自分のことをコレと言わせるのは。価値がないと思わせたのは。楽しいという感情も知らないで、本を読むだけの毎日を強要するのは。
煮えたぎる音が耳奥でする。どろどろしたそれは怒りという感情だ。チャロアがめったに抱かないもの。
でも、それ以上に。
悲しくて、伝えてあげたかった。
だから。
「あなたは本よりも価値があります。本なんか足元にも及ばないくらい、ずっとずっと素晴らしい存在です。ボクがそれを証明してみせますから」
シャツワンピースの上から、こわごわ抱きしめた体は、骨だけで出来ていると言われても納得できるほどに細かった。
抱擁に身を竦ませながら、初めて存在を肯定された少女は、顔を上げた。いつの間にか下がっていた重い頭を持ち上げた時に見えた、少女の家に入ってきた人の顔は。
今までの人生で向けられたことがない、慈愛の表情を浮かべていた。柔らかく抱きしめられて、人の体温は温かいのだと。そんな当然のことを誘われるように目を閉じた少女は初めて知った。