探偵の矜持
昼下がり、赤く染まった楓。紅葉を通り越して、少し枯れ気味なそれが隣の家にはらはらと降っているのが目の端に止まって。オニキスは読んでいた分厚い図鑑から顔を上げた。
ちりんちりん。どこからか、ベルにもにた可憐な音が聞こえた気がして、オニキスは窓の外を見やった。もう、音は聞こえない。そもそも聞こえるはずのない音だったけれど、その余韻が騒がしい沈黙の中でも残っている。懐古と言えるほど昔ではないし、懐古主義と言えるほど昔を懐かしんだりしない。ただ、そこに忘れたくない記憶があるから、オニキスは時折振り向くだけだ。
ふと目を閉じれば、怪盗とのやり取りや少女に渡された鳴らないベル、獣臭い山頂での様々な思い出が蘇る。
まだ、隣の家の楓が赤々と艶を帯びていた頃の話だ。
いつもながら、オーウェンに予告状を理由に連れて行かれた現場。「今度はちゃんと依頼忘れなかったんですね」と呟いたチャロアに、オーウェンの額に青筋が伸びた。「鳴らないベルを怪盗から守って欲しい」という依頼をしてきたのは、十歳になるかならないかの少女だった。
赤茶の髪を後ろで高く括って、そばかすのある元気な少女は小町見という、元同業者であった父の親友が父へと送った、音の鳴らないベルを狙われているのだと悩ましげに話してくれた。
父が大事にしているものだから、大切なのにと。オニキスにはわからない感情を語っていた。
その日の夜、早速現れた怪盗にまともに対峙したのはほとんど初めてに近かった。
身長は百六十くらい、スレンダーな体つきにシャツとベスト、マントを羽織って仮面を被っている。
「そのベルを返しなさい」
「あら、怖いわ。でもこのベルの価値をわからないなら、持っていても意味がないのではなくて?」
「そのドッグベル自体の価値はわからなくても、大切な人同士の手に渡って、ここにきたことに意味はあるわ!」
「……それはそうねぇ。でも、保管されるだけの『大切』に意味はないわ」
冷たい目をした怪盗の。その言葉が、オニキスの心の柔らかい部分に突き刺さったとしても。
オニキスはそのドッグベルを渡そうとは思わなかった。自分が、自分が持っていないもの。その繋がりを、途絶えさせたくはなかったから。
「あの子の父親はそれがなにか気づいているわ。だから、いつかあの子を守る日が来るかもしれないドッグベルを保管して、来る日にあの子に渡すと言っていたわ! だから、あなたには渡せない、そのベルを持つべきなのはあなたじゃないわ」
「意外と熱いのね。まぁいいわ。今回も泣きついてきたら許さなかったけど……その情熱に免じて置いていってあげる。これが失くなったら傷つく人がいるのなら。傷つける行為は美しくないもの」
前回に相まみえた時に、助手のいない心細さからつい泣き言を言ってしまった覚えのあるオニキスは、唇を噛んだが。肩をすくめた怪盗が、鮮やかに盗み出したベルを軽く放り投げたため、慌てて掴み受け取れたことに安堵した時には、もう怪盗はいなかった。
赤毛の少女には泣いて喜ばれたし、依頼人であるオーウェンたちにも貸しができた。
なにより、あのベルがこれからもずっとあの家を守っていくのだと思えば、なんだかむず痒い気分になった。
もう遠くなったあの山頂を思い出していると。
「先生ただいま帰りましたー! お菓子もジュースもたっぷり買ったんで、『祝・怪盗から守り抜いたぞパーティー』出来ますよ! 今からやります? それとも禁断の真夜中ですか!?」
「あなたのネーミングセンスはもう少しどうにかならないのかしら? あと、真夜中にするわけないでしょう」
「先生が常識人になっちゃいました……」
「どういう意味かしら?」
元は常識人ではなかったとも取れる言葉に頬を引きつらせて、チャロアを睨むと。下手くそな口笛を吹いて「あ、看板Closeにしてきますねー」と逃げ出すのに、軽くため息を付いてから。小さく笑ったのだった。




