獣人物語 第一幕
朝、目を覚ますと、隣で狼が寝ていた。
正確には狼獣人の女性であり、俺の妻の一人である。
銀色の毛並みが朝日に照らされている。本人によれば寝起きの毛並みはひどいらしいが、俺には普段との違いがよく分からない。耳が少し寝ているので、眠そうだということだけは分かる。
「おはようございます、あなた」
「ああ、おはよう、リシア」
名前を間違えずに済んだ。
俺はさりげなく彼女の右耳を見る。小さな金色の耳飾りがついている。間違いない。リシアだ。
朝からこんなことで安堵している自分が情けないが、これには事情がある。
俺には前世の記憶がある。
前世では日本という国に住む、ごく普通の人間だった。特別な才能があったわけでもなく、特別な家に生まれたわけでもない。少なくとも、今の人生と比べれば平凡そのものだった。
そんな俺が死んで、気がつけばこの世界で赤ん坊になっていた。
しかも生まれた家がとんでもなかった。
王国でも指折りの大貴族。その嫡男。
領地は広く、屋敷はでかい。食事に困ったことは一度もなく、幼い頃から何人もの使用人に世話をされて育った。
さらに俺自身にも、どういうわけか異常なほどの才能があった。
十歳になる頃には大人の兵士を相手に剣で勝ち、十五歳になる頃には騎士団でも俺とまともに打ち合える者が数えるほどしかいなくなった。魔力も人並み外れて多い。
おまけに容姿までいいらしい。
これは自分では分からない。
鏡を見ると、灰色の毛に覆われた大きな狼の顔が映っている。鼻先が前へ伸び、頭の上には三角形の耳が二つ。牙もある。
俺である。
この世界の基準では、とんでもない美男子なのだそうだ。
何度言われても納得できない。
そんなわけで、俺の第二の人生は客観的に見れば大当たりだった。
この世界そのものも悪くない。
魔獣という危険な生物はいるものの、人が暮らしている地域はおおむね安全だ。戦争も長いこと起きておらず、街道には定期的に兵士が巡回している。
農業も発達している。少なくとも俺が生まれてから、大規模な飢饉が起きたという話は聞いたことがない。
貴族だから贅沢できているだけではなく、街へ行けば庶民も普通に酒を飲み、肉を食べ、祭りを楽しんでいる。
前世ほど便利ではない。
水道も電気もインターネットもない。
だが、転生先として考えるなら十分すぎるほど恵まれている。
問題は住人だった。
いや、彼らが悪いわけではない。
むしろ親切な者が多い。
問題なのは、見た目である。
「あなた? どうかなさいました?」
「ああ、いや。なんでもない」
リシアが首を傾げる。
狼が首を傾げている。
かわいいと言えば、かわいい。犬を飼った経験のある人間なら分かると思う。
だが、そういう意味ではない。
この世界の住人は獣人だ。
狼、犬、猫、狐、熊、猿、豚。ほかにも様々な種族がいる。
そして前世の記憶を持つ俺には、どうしても彼らが動物に見える。
生まれてから何十年も経った今なら、もちろん獣人であることは理解している。会話もするし、一緒に食事もする。仕事もする。友人もいる。
家族だっている。
それでも、美的感覚だけはどうにもならなかった。
美人の猫獣人と、そうではない猫獣人。
俺にはどちらも猫に見える。
美男子の猿獣人と、そうではない猿獣人。
どちらも猿だ。
この感覚について誰かに相談したことはない。
できるわけがない。
俺自身が狼なのだから。
◇
朝食の広間には、すでに妻たちが集まっていた。
俺には妻が十人いる。
別に女好きだから十人も娶ったわけではない。この国では一夫多妻は珍しくなく、特に強い男が複数の妻を持つことは社会的にも推奨されている。
強さが何より重視される社会だからだ。
強い者が領地を守り、魔獣を倒す。昔は他国との戦争でも強者が必要だったらしい。
その結果、強い男には子孫を多く残してほしいという文化が形成された。
俺は貴族で、しかも強い。
だから結婚の話が山ほど来た。
一人、二人と断っているうちはよかったが、父親から「そろそろ家のことも考えろ」と説教され、親戚からも同じことを言われ、ついには王家まで縁談を持ってきた。
気がつけば十人である。
「おはようございます、旦那様」
「おはよう、ミレーヌ」
赤い首飾り。
「おはようございます」
「ああ、おはよう、サーシャ」
銀の腕輪。
「あなた、今日は早いのですね」
「おはよう、エレナ」
緑の耳飾り。
完璧だ。
我ながら隙がない。
妻たちは俺が一人一人に贈った宝飾品を身につけている。
俺は結婚すると、その女性に似合う宝石を選んで贈ることにしている。
ということになっている。
本当の理由は識別用だ。
この方法を思いつくまでには、いろいろあった。
特に問題なのが第一夫人と第四夫人である。
二人とも豚獣人だ。
第一夫人のミレーヌは、この王国でも指折りの美女として知られている。社交界では彼女の容姿を題材にした詩まで作られているほどだ。
俺には豚にしか見えない。
第四夫人のセレスも豚獣人である。
こちらも十分美しいらしい。
俺には同じく豚にしか見えない。
結婚当初、俺は二人を何度か間違えた。
名前を間違えたときの空気は、今でも忘れられない。
そこで俺はミレーヌには赤い宝石の首飾り、セレスには青い宝石の髪飾りを贈った。
以来、大きな事故は起きていない。
「あなた」
「ん?」
ミレーヌが俺を見る。
赤い首飾り。間違いない。
「何か?」
「そんなに見つめられると、少し恥ずかしいですわ」
「……似合っていると思ってね」
嘘ではない。
赤い宝石と茶色の毛並みは、たぶん似合っている。
ミレーヌは嬉しそうに笑った。
隣に座っていたセレスが呆れたように言う。
「朝から仲のよろしいことで」
青い髪飾り。
よし。
「セレスにも似合っているよ」
「まあ」
機嫌が直った。
俺は食事を続ける。
こういう技術だけは、この人生でずいぶん上達した。
妻たちとの関係は悪くない。
むしろ良好だと思う。
ミレーヌは頭がよく、屋敷のことをよくまとめてくれる。セレスは明るく社交的で、俺が苦手とする貴族同士の付き合いを助けてくれる。
ほかの妻たちも、それぞれ違った長所を持っている。
俺は彼女たちを大切に思っている。
それは間違いない。
ただ、世間で言われるような、
『王国一の美女を妻に持つなんて、男として羨ましい限りだ』
という感覚だけが理解できない。
俺には美人も普通の女性も区別がつかないのだから。
「旦那様は、本当に奥様方をよく見ておられますな」
給仕をしていた老執事が感心したように言った。
「そうか?」
「それぞれの奥様に似合う宝飾品を選ばれ、いつも身につけておられるものまで覚えていらっしゃる。なかなかできることではございません」
妻たちが嬉しそうに俺を見る。
やめてほしい。
非常に心が痛い。
「まあ……夫として当然のことだろう」
俺はそう答えて、パンを口に運んだ。
誰から見ても、俺の人生は順風満帆だった。
大貴族の跡継ぎとして生まれ、健康で、強く、金があり、家族にも恵まれた。
そして十人の美女から愛されている。
前世の俺が聞いたら、殴りたくなるほど恵まれた人生だと思う。
ただし、その十人の美女が美女であることだけは、今でもまったく分からない。
# ただし、その十人の美女が美女であることだけは、今でもまったく分からない。




