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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ④「水路を動かす」

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第62話 水門の構造

タール爺さんの許しを得た翌日、わたしは父とグスタフ親方を村の北の水門に連れていった。


朝の水路は秋の冷気の中で、青白く光っていた。タール爺さんは少し離れた場所に立って、わたしたちのことを見守っていた。


「お父さん、グスタフさん。これが水門です」


水路の上に渡された木の梁から、太い縄が下りていた。縄の先には水路の幅とほぼ同じ大きさの厚い板が吊り下げられている。板の下端には、小石を詰めた重しが取り付けてあった。


縄の上端は、梁の上の小さな滑車を経由して、水路の脇に立つ木の柱に巻き付けられていた。柱には鉄の輪が一つだけ取り付けてあって、その輪に縄を通して引っかけて、板の高さを固定する仕組みだった。


グスタフ親方が、しばらく水門を見上げていた。


「縄が、太い」


「うん」


「板の重さに、重しの重さも足されとる」


「水流で浮き上がらないように」


グスタフは縄を一本指で弾いた。ぶん、と低い音がした。


「これを引くのは、なかなかの力だな」


「タール爺さんが、毎日やってる」


グスタフが短く息を吐いた。


グスタフが、少し離れた場所のタール爺さんの方を見た。爺さんは黙ったまま、こちらを見ていた。


◇◇◇


父が水門の真下に立って、上を見上げていた。


「板の重さは」


「タール爺さん、板の重さは、どれくらいですか」


タール爺さんが歩み寄ってきた。


「一人で持ち上げるのは無理だ。普段は縄の滑車で軽くして引いとる」


「滑車があるんだ」


「あるが、半分しか軽くならん」


父が梁の上の滑車を覗き込んだ。


「一段滑車か」


「ええ」


「二段にすれば、力は四分の一になる」


「ふん。だが、その分、引く距離が長くなる」


タール爺さんが頷いた。


「縄を倍の長さ引くことになる」


それで父は黙った。


(——機械なら、距離が長くても問題ない)


(——人の手を使わないなら、滑車を増やして力を減らせる)


(——その方が、ぜんまいの負担も軽くなる)


頭の中で部品が並んだ。二段滑車。ぜんまい。縄巻き取り装置。


「お父さん、滑車を二段にしたい」


「ああ」


父はそれだけだった。けれど、頷きの中に同意があった。


◇◇◇


グスタフが水路の縁に屈み込んで、水路の底を覗き込んでいた。


「ここで一度、止めるか」


「うん」


「お前さんが作りたいのは、縄を機械で引く装置だな」


頷いた。


「ぜんまいで動かすつもりか」


「そう」


グスタフがしばらく黙って、自分の指で水路の底に簡単な絵を描いた。


「ぜんまいの巻き取り装置を、ここに置く」


絵をじっと見た。


「その軸に、縄を巻き付ける」


頷いた。


「軸が回ると、縄が巻き取られて、板が上がる」


息を一つ吸って頷いた。


グスタフが、別の絵を描いた。


「軸を逆に回すと、縄が緩んで、板が下りる」


「なるほど」


「だが軸が止まると、板の重さで縄が引きずられて勝手に動く」


「あ」


頭の中で問題が立ち上がった。


(——機構の保持)


(——板を『どの高さで止めるか』を機械が決めて、勝手に動かないようにする)


「保持の仕組みが、要る」


グスタフが顎を引いて、もう一つ絵を描いた。


「歯車に爪を引っ掛けて、特定の位置で止める仕組み。時計でいう脱進機の親戚だな」


「ラチェット」


「?」


「ごめん、別の言い方」


頭の中で前世の言葉が立ち上がった。ラチェット機構。一方向にしか回らない歯車。逆方向への動きを爪で止める仕組み。グスタフが「脱進機の親戚」と言ったのは、ほぼ同じものだった。


「ラチェットを、入れる」


「ああ」


グスタフがそれだけ言って、自分の指で更に絵を足した。


軸・ぜんまい・ラチェット・縄・滑車・板。

水門を上下させる装置の概形が、秋の水路の底の上に薄く描かれていた。


◇◇◇


「お父さん。グスタフさん」


「うん」


「ここまでで、水門を機械で動かすことはできる」


「ああ」


「でも、あと一つ問題がある」


父とグスタフが、同時にこちらを見た。


「いつ開けて、いつ閉めるか、を機械が決めなきゃいけない」


二人が、しばらく黙った。


タール爺さんが、少し離れた場所で言った。


「それは、わしが今までやってきたことじゃな」


「はい」


「太陽の位置と、水位の杭の傷の数で、決めとる」


頷いた。


「これを、機械が、決めるのか」


爺さんの声は、責めるような響きではなかった。ただ、純粋な疑問の響きだった。


「そうです」


少し迷ってから、わたしは説明を試みた。


「機械式の時計で、時刻を測る」


「ええ」


「水位の杭の代わりに、浮きを置いて、浮きの高さを機械が読む」


爺さんは黙って聞いていた。


「時刻と水位の組み合わせで『開けるべきか』『閉めるべきか』を判断する仕組みを作る」


爺さんが、目を細めた。


「判断する仕組み、と」


「はい」


「機械が、判断するのか」


「機械が、爺さんの代わりに判断する。ただ、爺さんが見ていて、間違ったら止める」


爺さんがしばらく黙ってから、ふっと笑った。


「ふん。やってみい」


それだけ言って、水路の上流の方に向かって歩き始めた。


◇◇◇


爺さんが見えなくなってから、わたしは父とグスタフの方を見た。


「お父さん、グスタフさん。今日決めたいのは、水門を上下する機構だけ」


グスタフが短く頷いた。


「判断する仕組みは、また別に作る」


父が短く頷いた。


「明日から、ぜんまいと縄巻き軸と、ラチェットの設計に入りたい」


グスタフが、ぴくりと眉を動かした。


「リナ嬢ちゃん」


「はい」


「ぜんまいは、置時計用のは小さすぎる」


頷いた。


「水門の板を上げ下げするには、もっと大きなぜんまいが要る」


「そうですね」


「鍛冶屋仕事で、大きいばねを作ろう」


「グスタフさん、ありがとう」


「ふん。礼はいい」


父が黙って頷いた。


それで決まった。


◇◇◇


家へ戻る道で、父が短く言った。


「リナ」


「うん」


「お前さんは、爺さんを大事にしとるな」


少し顔を伏せた。


「あの爺さんに『機械を見守る役』を残したのは、いい設計だ」


胸の奥で、熱が一つ灯った。


(——お父さんが、設計のことで褒めてくれた)


(——機構の話じゃなく、爺さんとの関係のことを)


「お父さんも、そう思う?」


「ふん。爺さんはな、譲り合いの分かる人だ」


頷いた。


「人の仕事を機械が取ると思った時に、ちゃんと身構える。だが、自分の仕事の何が残るかをはっきり見せれば、納得もする」


黙って聞いた。


父が秋の道を歩きながら、続けた。


「俺の工房に来る客にも、似た人がいる」


「お父さんの工房に?」


「ああ。時計を頼みに来る人は、半分は『時を測りたい人』だが、もう半分は『時を見守りたい人』だ」


「ふうん」


「リナの作る機械は、どちらも一緒に持っとる」


頭の中で、何かが繋がった気がした。


(——お父さんは、たぶん、いつも『道具と人の関係』を見てる)


(——前世のわたしが『PM の感覚』と呼んでいたものを、お父さんは職人の感覚で持ってる)


◇◇◇


家が見えてきた頃、父がもう一度短く言った。


「リナ」


「うん」


「明日から、工房で大きな机が要る」


頷いた。


「水門の試作品を載せる机は、いつものより倍は要る」


「分かった」


「俺が、土間に作業台をもう一つ作る」


「ありがとう、お父さん」


「ふん」


それだけだった。


家の戸を開けると、エマが昼の支度をしていた。ノラが居間で木の人形と話し込んでいた。普段の景色が、いつもと同じに広がっていた。


(——明日から、また始まる)


(——水門の動く仕組みを作る)


(——あとは、いつ開けるかを決める仕組み)


声には出さなかった。


土間の隅に父が立てかけた古い木材があった。父が「明日、新しい作業台を作る」と言っていた、その材料だった。


紅の月の昼の光が、土間の上に薄く差し込んでいた。


■あとがき・解説


第62話は、リナと父アルベルトとグスタフ親方が、村の北の水門の前で既存の機構を観察する回でした。木の梁から下りる太い縄、水路の幅とほぼ同じ厚い板、水流で浮き上がらないための重し、半分しか軽くならない一段滑車——タール爺さんが少し離れた所から黙って見守る中で、機械化のための設計図が秋の水路の底に描かれていきます。今回はその「既存の仕組みを観察してから設計に入る」という順番について、ゆるく解説していきます。


■この話で出てきた言葉


■「現状の機構を、まず読む」——リバースエンジニアリングの第一歩


リナが今回いちばん先にやったのは、新しい装置を構想することではなくて、すでに動いている水門の構造を一つずつ分解して理解することでした。前世の言葉でいうと「リバースエンジニアリング」と呼ばれる仕事の入口にあたります。


縄の太さは板の重さに合わせて選ばれている。重しは水流で板が浮き上がらないために付いている。滑車が一段だけなのは、毎日触る道具として整備が単純な方がいいから。一見ただの素朴な仕組みでも、長く使われてきた道具には「なぜそうなっているか」の理由が、一つ一つの部品の裏に張り付いています。


機械化を構想する時、ここを飛ばして「新しい仕組みを上に被せる」とだいたい失敗します。古い仕組みが持っていた良さを丁寧に拾ってから、その上で「ここは機械が代われる」「ここは人のままがいい」と切り分けていく方が、結果として頑丈な装置に育ちます。


■「てこの原理/力の伝達」——滑車を一段増やすだけで、力は四分の一に


父が「二段にすれば、力は四分の一になる」と言ったあの場面。学校で習う物理の言葉に、装置設計の現場の重みを乗せた発言でした。


滑車というのは、紐や縄をぐるりと回す丸い部品のことで、これを使うと力の向きを変えたり、力の大きさを変えたりすることができます。一段の動滑車を一つ挟むだけで、引く力は半分になる代わりに、引く距離は倍になる。二段にすれば、引く力は四分の一になる代わりに、引く距離は四倍になる。


ここで爺さんが「縄を倍の長さ引くことになる」と頷いたのが、現場の人の鋭さでした。人の手で引く道具なら、距離が伸びるのは大きな負担になる。だから普段は一段で済ませている。ところが「機械が代わりに引く」場合は話が変わります。機械はぜんまいで動くから、距離が長くなっても疲れない。リナが「滑車を二段にしたい」と言えたのは、この「使う主体が人から機械に変わる」という前提の置き換えがあったからでした。


■「ラチェット機構」——一方向にしか回らない歯車


グスタフが指で描いた「軸が止まると、板の重さで縄が引きずられて勝手に動く」という問題。これは機械を動かすときに最初に当たる壁の一つです。


ぜんまいで縄を巻き取っても、ぜんまいが止まった瞬間に、重い板が縄を逆に引っ張って、軸が逆回転してしまう。これを止めるための古典的な仕組みが「ラチェット」と呼ばれる機構です。


歯車の歯を斜めに切って、その横に爪を一本だけ置く。爪は順方向にはひっかからずに歯車の上を滑るけれど、逆方向には歯にがっちりとひっかかって動きを止める。釣り竿のリール、車のジャッキ、機械式時計の脱進機——身の回りの「一方向にだけ動いてほしい」場所には、ほぼ必ずラチェットの親戚が入っています。


グスタフが「時計でいう脱進機の親戚だな」と言ったのは、職人の側から見たラチェットの位置付けでした。リナが前世の言葉で同じ仕組みを「ラチェット」と呼んでいて、二人が違う名前で同じものを指していたことに気付く場面が、この回のささやかな出会いでした。


■「使う主体が変わると、設計が変わる」


父が帰り道に「リナの作る機械は、『時を測りたい人』と『時を見守りたい人』の両方を一緒に持っとる」と言った場面。


道具は誰のために、何のために使われるかで、最適な形が変わります。人の手で引く水門と、機械が引く水門では、最適な滑車の段数が違う。同じ「水門を上下する」という目的でも、使う主体が変わるだけで、設計の答えがまるっきり別になる。父が職人として積み上げてきた感覚と、リナが前世の PM として積み上げてきた感覚が、ここで同じ場所を別の角度から照らしていました。


帰り道の家の戸を開けるとエマが昼の支度をしていて、ノラが居間で木の人形と話し込んでいる——いつも通りの景色の中で、リナの頭の中だけが既に明日の設計図に飛んでいた、その静かな対比が好きな場面でした。次の話もお楽しみに。


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