第4話 父の工房
「魔力なき者」と告げられたあの夜から、二日経った。
最初の夜は毛布の中で、ただ呆然としていた。
二日目の朝もご飯の味がよく分からなかった。
それでも——三日目の朝、わたしは自分の中で何かが動き出すのを感じた。
(……立ち直っているのか、わたし)
正直、自分でも驚いた。
前世の三十三歳の感覚ならもう少し引きずって当然な気がする。
それなのに八歳のリナの身体は、悲しみよりも好奇心の方を強く感じてしまうらしい。
朝食の席で、わたしは思い切って口を開いた。
「お父さん」
スプーンを止めた父アルベルトがわたしを見た。
「あの、工房、見たい」
ほんの一瞬、父の眉がわずかに上がった。
驚いたような、それでいて嬉しそうな。
「……今日か?」
「うん。ずっと見てたい。じゃましないから」
父はしばらくわたしを見つめていた。
そしてふっと息を吐いて、
「……来い」
それだけ言った。
エマが片手で口を覆って何か言いたげに父を見たけれど、結局何も言わなかった。
代わりにわたしの頭をぽんと撫でて、「行ってらっしゃい」と笑ってくれた。
◇◇◇
父の工房は二日前にエマと一緒に覗いたあの小さな部屋だった。
だけど改めて父の招きで入る工房は——全然違う場所に見えた。
長い作業台が窓の下にある。
道具棚にはわたしが名前を知らないたくさんの工具が並んでいた。極細のヤスリ、何種類もの小さなドライバー、虫眼鏡が三つ。それから聞いたこともない用途の奇妙な形の金具たち。
奥の棚には半分組み立てた時計、修理を待つ時計、部品だけになった時計——様々な状態の機械が整然と並んでいる。
部屋の真ん中、作業台の上には、
(……あ)
わたしは思わず足を止めた。
二日前にも見た半分分解された鐘時計。
あれがまだそこにあった。
「これ、まだなおしてない?」
「ああ。これは村の教会のものでな。少し面倒な修理だ」
アルベルトはわたしのために木箱を作業台の脇に置いてくれた。
八歳の身長では作業台の上がまだ覗き込みにくい。
ようやくわたしの目線が機械と同じ高さになった。
——息が止まった。
歯車。
大きいものから小さいものまで何十という数の歯車が整然と並べられている。
真鍮の輝き、銀色の細い軸、極小のバネ。
それぞれが複雑に絡み合って一つの「時計」というシステムを構成していた。
「ここが本体。針を動かす歯車だ」
父が一番大きな歯車を指差した。
「これがぜんまいから動力をもらう」
「ぜんまい」
「これ。巻いてやると、ゆっくりほどけながら動力を出し続ける」
父は棚から巻かれた金属のバネを一つ取ってわたしに見せた。
「このぜんまいがこの大きな歯車を動かす。大きな歯車がこっちの中くらいの歯車を動かす。中くらいの歯車がもっと小さな歯車を動かす」
父の指が歯車から歯車へとゆっくり移動していった。
「動力は一つだ。だが歯車の大きさを変えてやると回る速さが変わる」
「……速さ」
「一分に一回しか回らない歯車がある。一秒に一回回る歯車もある。同じ動力から別の速さを作り出せるんだ」
わたしはその言葉をゆっくりと噛みしめていた。
ある入力から別の速さの出力をいくつも作り出す——機構。
(……ギア比、だ)
前世でいくつかの機械の解説を読んだことがある。
歯車比というやつ。
頭の中ではそんな言葉が次々に転がってくるのに、
口に出そうとするとうまく回らなかった。
この世界の口で言うには、「ぎあひ」はどこか変な音だった。前世の単語をそのまま声にするのは、まだ少し抵抗があった。
「お父さん、これ、誰が考えたの」
「ん? 歯車のしくみか?」
「うん」
父はしばらく考え込んだ。
「分からんな。古代の魔導士の中に機械を作る者がおったらしい。今のこの仕組みは、その頃のものを職人が代々引き継いできたものだ」
(……古代の魔導士)
その言葉がちくりと頭の中で何かを刺した気がした。
◇◇◇
午前中、わたしはずっと父の作業を見ていた。
父は極細のドライバーで、止まった歯車の軸からわずかな塵を払い落とした。
別の歯車を小さなブラシで丁寧に磨いた。
ぜんまいを巻き直し、振り子を取り付け直し、軸の油を一滴ずつ補充した。
何時間も同じ作業の繰り返しだった。
だけどわたしは飽きなかった。
父の手が迷いなく動く。
彼が触れるたびに機械が少しずつ生気を取り戻していくのが見えた。
(きれいだ)
その一言しか出てこなかった。
途中で父がちらりとわたしを見た。
「飽きないのか」
「うん」
「……変わった子だ」
父はそれだけ言ってまた手を動かした。
口元がほんの少しだけ緩んでいたのをわたしは見逃さなかった。
(……飽きるわけがない)
わたしは胸の中で呟いた。
前世で何時間もコードを書き続けたあの感覚に、これは似ていた。
ひとつの構造を分解して組み立て直して動きを見つめる。
時間を忘れる、あの感覚。
(——もっと、見ていたい)
(——もっと、知りたい)
たぶん顔が少しだけにやけていた。
父に見られないように慌てて両手で頬を押さえた。
◇◇◇
昼を過ぎて、父はようやく修理した部品を本体に組み戻し始めた。
「リナ、見ていろ」
そう言って父は一つの大きな歯車を本体の軸にそっとはめ込んだ。
それからその隣に中くらいの歯車をぴたりと合わせた。
歯と歯がぴったり噛み合う。
——その瞬間にわたしは息を呑んだ。
父がぜんまいを軽く巻いた。
ジリ、と小さな音がした。
そして大きな歯車がゆっくり回り始めた。
それに引かれて、中くらいの歯車も。
中くらいの歯車に引かれて、小さな歯車も。
小さな歯車に引かれて、もっと小さな歯車も。
何十という歯車が一斉に自分の速度で回り始めた。
ぜんまい——というたった一つの動力源から、
驚くほど多様なたくさんの動きが生まれていた。
——システム、だ。
頭の中でその言葉が自然と浮かんだ。
(ぜんまいが入力。
振り子と歯車が処理。
針の動きが出力。
そしてその間にいくつもの「変換」がある——)
胸の奥が温かいような、ざわつくような奇妙な感覚に包まれた。
「お父さん」
「ん」
「これ、ずっと見ていていい?」
父はわたしを見てほんの少し笑った。
「明日も来い。明日もう一度、本格的に動かしてみせる」
——明日。
わたしは頷きながらずっと回り続ける歯車を見つめていた。
その整然とした機構の美しさが何かをわたしに語りかけている気がした。
まだそれが何なのかははっきりとは分からないけれど。
■あとがき・解説
第4話はリナが父アルベルトの工房で、たくさんの歯車に出会う話でした。
この回はちょっとだけ「電気のない時代の機械」のお話をさせてください。
■この話で出てきた言葉
■「歯車」
ふちにギザギザの歯がついた、お皿のような部品です。
歯と歯がぴったり噛み合うように作られていて、一つの歯車が回ると、隣の歯車もつられて回ります。
時計の中をのぞいたことがある方は、たぶん見覚えがあるはずです。
歯車の大きさを変えると回る速さも変わる、という性質を使って、たった一つの動力からゆっくり進む針と速く進む針を、両方とも作ることができます。
リナの父が「歯車の大きさを変えてやると回る速さが変わる」と説明していたのは、まさにこの仕組みのことでした。
■「ぜんまい」
くるくると渦巻きのように巻かれた、金属のバネのことです。
ぐっと巻いてやると、ほどけようとする力がたっぷり蓄えられます。
そのほどける力をゆっくり少しずつ取り出して、歯車を動かす「動力」として使うのが、ぜんまいの役割。
電気が発明される前の世界では、こうしてバネに力を貯めておくのが動力を持ち歩く一番の方法でした。
昔の腕時計や、おもちゃの車によく使われていたのを、覚えている方もいるかもしれません。
■「振り子」
棒の先に重りをつけて、ぶら下げただけのシンプルな装置です。
押してやると、左右に揺れます。そして面白いことに、この揺れの速さは重りの重さや揺れ幅をちょっと変えても、ほとんど変わりません。
だから振り子は、機械の中で「いつでも同じ調子を刻んでくれるリズム係」として大活躍してきました。
カチ、カチ、と一定の音を立て続けるあの感じ。
時計が時刻を正確に刻めるのは、振り子が文句も言わずに、ずっと同じ調子を保っていてくれるおかげなのです。
■「アナログ計算機」(本文には出ていませんが、関連用語として)
電気を使わずに、歯車やレバーだけで計算をする機械、というものが歴史上には存在しました。
有名なのは、十九世紀のイギリスで構想されたバベッジの階差機関という巨大な機械です。
歯車を何百個も組み合わせて、複雑な計算を自動でやってのける、という野心的なもの。
電気のない世界で「機械が決まった手順を勝手にこなしてくれる」というアイデアは、実は古くから人類の夢でした。
この物語の世界に並んでいる歯車たちも、もしかしたらそんな夢の一部かもしれません。
ぜんまいから始まって、振り子を経由して、大きな歯車と小さな歯車を回し、最後に針が動く。
父の工房で動き始めたあの鐘時計は、見方を変えれば、たった一つの動力を、いくつもの「速さ」へと配り直す機械でした。
リナの目はもう、ただの綺麗な装飾としてそれを見ていません。
そこに何か、彼女の知っている世界とよく似た「構造」を感じ取り始めています。
その正体が言葉になるのは、次の話のことです。
次の話もお楽しみに。




