第22話 冷たい視線
青の月の二十九日。
ハーラム町の商人ギルド長の訪問まで、あとひと月ほどとなった頃。
その朝、母エマがわたしに「井戸に水を汲んでおいで」と頼んだ。
普段は兄ヨハンかわたしが付き添いで行く役目だったけれど、その日ヨハンは父アルベルトの工房の手伝いで家を出ていた。
ノラはまだ朝寝坊している。
「ひとりで行けるの?」
エマが心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「うん。だいじょうぶ」
——本当はちょっと不安だった。
「魔力なき者」のわたしは、これまで村の中でも過保護に扱われてきた。一人で外に出る機会は数えるほどしかなかったし、熱病で寝込んで以来、まだ体力も戻りきっていない。
八歳児の身体で桶を持って井戸まで行くのは、ほとんど初めての経験だった。
でもわたしは「もうできる」と自分に言い聞かせた。
「じゃあ、桶は半分だけ汲んで帰ってきてね」
エマがわたしの肩に手を置いて、ゆっくり言い聞かせた。
「半分。重かったら、もう少し減らしてもいいから」
「うん。半分」
「気をつけて、行ってらっしゃい」
エマがわたしの頭をぽんと撫でた。
◇◇◇
外は夏の朝の、爽やかな空気だった。
井戸までの道はすっかり覚えていた。
家族と何度も歩いた道。
途中で、村の女性が二人立ち話をしているのを見かけた。
「あら、リナちゃん。一人?」
「うん、おはよう」
わたしは礼儀正しく頭を下げた。
「お母さんは?」
「家にいる」
「ふぅん」
——女性の声色が少しだけ変わった。
「あんた最近、グスタフさんとこに通ってるんでしょう?」
「うん」
「魔力なき子に、鍛冶屋の仕事なんてできるのかしらね」
——もう一人の女性が隣でふっと笑った。
「まあ、お遊びでしょう。実害がなければいいけど」
(……あ、)
(……いま、わたし何か言われた)
胸の奥がひやりとした。
それでもわたしは頷きを返した。
「ごめんなさい、井戸いそぐから」
「あら、ごめんなさいね」
女性たちはふっとまた笑った。
「気にしないで」とは言わなかった。
わたしは桶をぎゅっと抱えて、足を速めた。
◇◇◇
井戸の前にも、村の女性が何人かいた。
そのうちの一人がわたしを見るなり、顔をわずかにしかめた。
「あら……リナちゃん」
「おはようございます」
「お一人?」
「うん」
——わたしは桶を釣瓶に結びつけようとした。
八歳の手でも、釣瓶の太い紐を一人で結ぶのは難しかった。
何度か滑った。
それを見ていた別のおばさんが、ため息をついた。
「ねぇ、リナちゃん。あんたまだ八歳でしょう? 一人でこんなところに来ない方がいいんじゃない?」
「うん」
「お母さんに連れてきてもらいなさい」
——その言葉は、表面的には優しかった。
でもわたしには、別の意味も聞こえた。
(——「魔力なき子」が一人で外を歩くのは危ない)
(——「魔力なき子」はいつも誰かの監督が必要)
(——お前は一人前じゃない)
(——お前は、わたしたちの仲間じゃない)
——胸の奥がまたぎゅっとなった。
「あの桶、自分でできると思う」
わたしは必死に紐を結ぼうとした。
何度か滑った。
おばさんがため息と共に、わたしの手から紐を引き取った。
「いいわよ、お姉さんが結んであげる」
「……ありがとうございます」
——わたしには、感謝を伝える言葉しか出てこなかった。
「お姉さん」という言葉に悪意はなかった。
あったとわたしが断言する根拠もなかった。
——たぶん彼女は、本当にわたしを心配してくれている。
でも、
(——一人でできない子として扱われている)
(——「魔力なき者」は、いつまでも子供扱い)
その認識がわたしの胸に、ずんと響いた。
◇◇◇
水を汲んで桶を、両手で持ち上げた。
——重い。
(……重い、重い、重い)
エマには「半分だけ」と言われていた。
それなのにわたしは、おばさんに紐を結んでもらった負い目から、つい張り切って桶の七分目まで汲んでしまった。
八歳児の腕には、それでもやはり限界に近かった。
それでもわたしは運ぶしかなかった。
帰り道の半分まで来た。
——ふらりとよろけた。
桶が傾いて、水がいくらか地面にこぼれた。
「あーあ」
——後ろから、男の子の声が聞こえた。
振り返ると、村の年上の子供たちが三人立っていた。
全員わたしより年が上。たぶん十歳から十二歳くらい。
「魔力なき子、水も運べないんだ」
「ねえ、お母さんに運んでもらえばいいのに」
「いやー、お母さんも忙しいんでしょ。だって、こんな子の世話大変だもの」
——その声には、明確な悪意があった。
(……あ、)
(……いまわたし、子供にも笑われてる)
胸の奥が急に冷たくなった。
さっきの井戸のおばさんたちの「優しい言葉」よりずっとわかりやすい、悪意。
それでもわたしは立ち上がった。
こぼれた水はもう取り戻せない。
桶にはちょうどエマに頼まれた分くらいが残っていた。
わたしはそれを両手で持ち上げた。
「……いそぐから、ごめんなさい」
わたしは振り返らずに歩き出した。
「あ、リナ、待って」
——子供たちの一人が何かを追って走ってくる気配がした。
(……何、するつもり)
頭の中で警戒が走った。
でも、その瞬間、
「やめろよ」
——別の男の子の声が、横から響いた。
わたしは足を止めた。
(……これは、)
(……たぶん、知ってる声)
そっと振り返った。
そこにいたのは、
——わたしと同い年の、男の子だった。
茶色の髪、日焼けした肌、活発な目つき。
ちょっと息を切らしていた。
「レオ……?」
わたしは思わず呟いた。
——レオ。
幼馴染、らしい。
わたしが転生してからまだちゃんと話したことのない、同い年の男の子。
村でたまにすれ違っていた、あの子。
彼は年上の子供たちとわたしの間に、ぎゅっと立ち塞がった。
「リナのこと、いじめるな」
——その短い言葉は、八歳児にしては強かった。
年上の子供たちは一瞬ぽかんとレオを見た。
それから肩をすくめて、
「レオあんた、こんな子の味方するんだ」
「変わったやつ」
——そう言って笑いながら、別の方向へ去っていった。
レオはその背中を、しばらく睨んでいた。
それから、わたしの方を振り返った。
「リナ、大丈夫?」
「……うん」
「水、こぼれちゃったね」
「うん。でも、お母さんに頼まれた分は、まだある」
「俺、運ぼうか」
——レオが両手を差し出した。
わたしはしばらく、その手を見ていた。
(……どうしよう)
(——優しさを受け取るのも、たぶん勇気がいる)
(——けど、いまわたしには必要だ)
「……ありがとう」
わたしは桶の片側を、レオに渡した。
そしてわたしたちは、二人で桶を運び始めた。
夏の朝の、まだ涼しい空気の中で。
レオは何も喋らなかった。
わたしも何も喋らなかった。
——ただ、その沈黙が不思議と温かかった。
■あとがき・解説
第22話は技術用語のほとんど出てこない、静かに重い回でした。井戸で水を汲むだけのおつかい。たったそれだけのことで、リナは大人の「優しい侮蔑」と子供の「あからさまな悪意」を、続けて浴びることになります。書き手として少しだけ、この回の輪郭を残しておきます。
■この話で起きたこと
■大人の「優しさ」という形をした距離
井戸のおばさんたちは、決して怒鳴ったり罵ったりはしませんでした。むしろ言葉は丁寧で、桶の紐まで結んでくれた。表面だけ見れば「親切な大人」です。けれどそこには、リナを一人前の村人として扱う気配がありません。「一人で来ない方がいいんじゃない?」「お母さんに連れてきてもらいなさい」。その言葉の裏に、「魔力なき子は監督が必要」「あなたはわたしたちの仲間ではない」という線が、確かに引かれていました。
悪意とは違うので糾弾しづらく、本人たちもたぶん善意のつもり。だからこそ、こちらが受ける痛みは、ある意味でもっとずっとしぶといものです。リナが胸の奥でぎゅっと縮んだのは、まさにその「やんわりとした線引き」を受け取ってしまったからでした。
■子供たちの「わかりやすい悪意」
一方、こぼれた水を見て笑った年上の子供たち。あの子たちのほうは、もっとシンプルに残酷でした。「水も運べないんだ」「お母さんも世話大変だもの」。明確に下に見て、笑う。
不思議なことに、こういう分かりやすい悪意のほうが、ときには受け止めやすかったりします。少なくとも輪郭がはっきりしているから。リナがあのとき本当に怖かったのは、笑い声そのものではなく、子供にすら笑っていい相手として扱われたという事実のほうだったかもしれません。
■そして横から現れた声
「やめろよ」と割って入ったレオ。同い年の男の子。リナの中では「顔は知っているけれどちゃんと話したことはない」、その程度の存在でした。
レオが何を考えてあのとき割って入ったのか、本人もたぶんよく言葉にできていません。「あいつら嫌いだから」くらいの、シンプルな理由。けれどリナにとっては、それは家族とグスタフ親方の外側からやってきた、初めての援軍でした。
桶を半分ずつ持って黙って歩く帰り道。あの沈黙の温度は、井戸で受けた言葉の冷たさと、ちょうど真逆の手触りをしていました。
「魔力なき者」という看板は、これからもリナの背中から消えません。村の中でやんわり線を引かれることも、これが最後ではないでしょう。
それでも、誰か一人でも、その線の向こうから手を差し伸べてくれる人がいる。その一人がいるかいないかで、世界の見え方は驚くほど変わります。
次の話もお楽しみに。




