第2話 リナの家族
ひんやりとした空気で目が覚めた。
木の天井の節目をぼんやりと見つめる。
遠くで鳥が鳴いている。前世で聞いたことのない、低くて柔らかい鳴き方だ。
それから台所で薪が爆ぜる音と、母エマの低くて優しい鼻歌。
毎朝こうして目が覚める。
それが——わたしの今の生活だった。
◇◇◇
「リナ、起きたの? 顔を洗って、こっちにおいで」
エマの声にわたしは寝間着のままよろよろと立ち上がった。
八歳の身体は前世の感覚から見ると驚くほど軽い。前世で当たり前にできた立ち上がりが、ずっと早く済んでしまって拍子抜けする。
家はこぢんまりとしている。
土間と居間が一続きになっていて、奥に両親の寝室、屋根裏に子供部屋。寝室の窓は薄い布を張ってあって、居間の窓は磨いた木の板戸を開け閉めする仕組み。電気はないが暖炉の火と所々に置かれた小さな魔石の明かりで、夜も真っ暗にはならない。
居間の中央には長い木のテーブルと四つの椅子。そしてノラ用の小さな腰掛け。
そこに家族が集まっていた。
「お父さん、おはよう」
短く挨拶すると、テーブルの一番奥に座っていた父アルベルトが片手を軽く上げて応えた。
言葉はない。だけどその目は柔らかかった。
寡黙な人だ、と数日かけて気づいた。
朝に「おはよう」と言うのは家族の中で、わたしと母だけ。父は頷くか、片手を上げるかそういうので返事をする。
最初は気まずかったけれど、これが彼の流儀なんだと分かってからはわたしも気にしないことにした。
その隣でばたばたと足を動かしているのは兄のヨハン。
「リナ、お前は顔がぼうっとしてるぞ。寝ぼけてるのか?」
「……お兄ちゃん、顔はいつもこれ」
「嘘つけ。元気な時はもっと——なんていうか、生意気な顔してたぞ」
そう言ってヨハンは笑った。
笑うと左頬にえくぼができる。十三歳の少年で、わたしより頭一つ半は大きい。
「ヨハン、リナをからかわないの」
エマがテーブルにスープの鍋を置きながら、たしなめる。
ヨハンは肩をすくめて「はーい」と答えた。
そしてわたしの隣の椅子では、
「ねぇね、ぱん」
三歳の妹ノラが両手にちぎったパンを掴んで、わたしに差し出してきた。
わたしのためにと言わんばかりの真っ直ぐな目。
「ありがと、ノラ」
そう言って受け取ると、ノラは満足そうに「うん」と頷いて、自分のパンに齧りついた。
——温かい、と思った。
前世のオフィスのデスクで食べていた、コンビニのおにぎりやサンドイッチとはまったく違う温度。
モニターの光ではなく、暖炉の火に照らされた、木のテーブルと四人の家族。
死んで転生して八歳の少女の身体になって、わたしはまだこの状況に追いついていない。
——けれど、ここは嫌いじゃない。
◇◇◇
朝食が終わると、エマがわたしの手を引いて村の井戸に連れていった。
「水を汲むの、見てなさい。リナももうすぐ自分でやることになるからね」
ガランガランと木の桶を釣瓶に下ろす音が朝の村に響く。
井戸の周りにはすでに数人の村人がいた。みんなエマに「おはよう、エマさん」「リナちゃん、元気になったの?」と声をかけてくる。
中にはわたしを心配そうに見る人もいた。
「あの子、まだ顔色が悪いね」
「熱が長引いたから……」
わたしはぺこりと頭を下げて、エマの陰に隠れる。
八歳児のふりをするのは案外難しい。
そのうちの一人が別の桶を持ち上げて、両手で軽く包み込んだ。
「アクシリア」
短い、聞いたことのない響きの言葉。
桶の中にふわっと清らかな水が湧き出した。
水生成の魔法というやつだろうか。
わたしはその瞬間を見逃さなかった。
詠唱を発した女性の指先と桶の縁の間に、何か——ほんの一瞬、模様のようなものが浮かんだ気がしたのだ。
(……今、何か見えた?)
エマに「リナ、ぼうっとしないの」と肩を揺すられて、わたしは慌てて頷いた。
◇◇◇
家に戻る前に、エマはわたしを父の工房に連れていった。
「お父さん、お昼にはここに来てね」
居間の隣にある小さな部屋の戸を開けると、機械油のような匂いと金属の冷たい匂いがふわりと漂ってきた。
そこは父アルベルトの仕事場だった。
木の作業台に半分分解された鐘時計が置かれている。
小さな歯車がいくつもいくつも整然と並べられている。
わたしは思わず息を呑んだ。
歯車。
ぴったりと噛み合うように削られた、真鍮の輪。大きな歯車が回ると、小さな歯車が連動する。比率に応じて回転数が変わる。
(きれい、だ)
それはわたしが知っていた世界のものにすごくよく似ていた。
時計の中身を覗き込んだことなんて、前世では一度もない。でもなぜか、これはわたしが「分かる」ものだと感じた。
(——もっと見たい)
頭の中に小さな声が走った。
近づきたい。触れたい。一つずつ手に取りたい。
——でもまだ八歳児だ。
怪しまれちゃだめだ。
「お父さん、これ、すごい」
それだけ言うのが、精一杯だった。
「リナ」
低い声に振り向くと、父アルベルトが作業椅子に腰を下ろしていた。
「機械が好きか」
短い質問。
わたしは何度も頷いた。
「……うん」
父はわたしをじっと見つめた。
それからほんの少しだけ、口角を上げた。
「そうか」
それだけ言って、父は手元の歯車を一つつまみ上げた。
窓から差し込む朝の光に、真鍮の歯がきらりと光った。
(——いつかわたしも、これを動かしてみたい)
そう思ったわたしを、エマがそっと連れ出して戸を閉めた。
「お父さんね、ああ見えてリナのこと、いっぱい考えてるのよ」
エマが小さく笑った。
◇◇◇
夜は早かった。
電気のない世界では、太陽が沈むとほとんどできることがない。
ノラを寝かしつけたエマがわたしの隣に座って毛布を肩にかけてくれた。
「リナ、まだ眠くないの?」
「うん……今日はね、ちょっと外を見たい」
エマは少し驚いた顔をしてから頷いた。
「じゃあ、少しだけよ」
そう言ってわたしの腰を支えながら、窓の前へ連れていってくれた。
木の戸を開けると、冷たい夜気と一緒に、しんと澄んだ闇がなだれ込んできた。
そして空には——
(……月が二つ)
大きな月と、その横に寄り添うような少し小さな月。
両方ともぼんやりとした青白い光を放っている。
地球では見たことがない、空。
数日かけて、わたしは確かに理解していたはずだった。
ここは異世界で、わたしは転生して、八歳のリナとして生きていくのだと。
それなのに今、この瞬間にようやくそれが——胸の奥にすとんと落ちた気がした。
二つの月の下で。
わたしの肩をそっと抱き寄せている、知らない世界の新しい母の腕の中で。
——ここは本当に異世界なんだ。
そうようやく思えた。
エマがわたしの頭をそっと撫でて、「寒くなったら戻りましょう」と囁いた。
わたしは頷くこともできずに、ただ二つの月をじっと見つめていた。
胸の奥には悲しみと温かさが、同じだけあった。
■あとがき・解説
第2話ではリナの家族と村の暮らしが見えてきました。
井戸で「アクシリア」と詠唱する女性、そして父の工房に並ぶ歯車。
リナが何気なく観察していたものは、実はプログラマーの目から見ると、ある共通点を持っています。
■この話で出てきた言葉
■「入力」
プログラムに外から渡される情報のことを「入力」と言います。
電卓でいえば、ボタンを押して入れる数字。検索エンジンでいえば、入力欄に打ち込むキーワード。
この話では、エマや村の女性が口にする詠唱の言葉(「ベシリア」「アクシリア」など)が、まさに入力にあたります。
何かを動かしたいなら、まず必要な材料を渡してあげる必要があるわけです。
■「処理」
入力された情報を何かしらのルールに従って変換することを「処理」と言います。
電卓なら「足し算をする」「割り算をする」がこれにあたります。
この話で言うと、エマが詠唱した瞬間に石の表面にふっと浮かぶ「模様」。
あれは、入ってきた詠唱の言葉を「火を点ける」という結果に変換するための、何らかの仕組みが動いている瞬間のはずです。
リナはそれを「魔法陣のようなもの」だと感じ取り始めています。
■「出力」
処理が終わったあとに外に返される結果のことを「出力」と言います。
電卓ならボタンを押した後に画面に出る数字。
この話で言えば、「火が点く」「桶に水が湧く」がそれにあたります。
わたしたちが普段「魔法の効果」と呼んでいるものは、プログラム的に見ると、すべて出力なのです。
リナは台所と井戸の二つの場面で、同じ構造を見つけました。
詠唱(入力)→ 模様(処理)→ 効果(出力)。
そして父アルベルトの工房に並ぶ歯車の山。あれもまた、ぜんまいから始まって、たくさんの歯車を通って、最終的に針を動かすという、似た構造を持っています。
リナの中でまだぼんやりとしか結ばれていないこの線が、いつか一本に繋がる日が来るかもしれません。
二つの月が浮かぶ夜空の下、リナは少しずつ、この世界の見方を覚え始めています。
次の話もお楽しみに。




