第139話 貴族の依頼
出発の朝、わたしは手紙を一通、行商の荷へ預けた。
宛先はバルドゥス爺さん。
壊された塔のこと。
直した塔のこと。
それから、見えなかったもののこと。
見えなかったものも書け、と言われていた。
だから最後の行にはこう書いた。
煙も光も読めるようになったのに、壊しに来た人の顔だけが、まだ見えません。
返事は急がない。
爺さんの返事は、いつも忘れた頃に効く。
◇◇◇
迎えの馬車は、朝のうちに村へ来た。
商人の荷馬車とは違う。
車輪が軽く鳴り、座席に布が張ってある。
御者の隣には、あの使者が座っていた。
黒い上着。
白い手袋。
「本日は、卿が直接お話しになります」
使者はそれだけ言って、あとは黙った。
出がけに、エマはわたしの襟を二度直した。
「貴族様でも、リナはリナよ」
「うん」
「でも、襟は直すの」
お母さんの指は少し冷たくて、それでかえって落ち着いた。
ノラは門のところまでついてきて、馬車が見えなくなるまで手を振っていたはずだ。
振り返らなかったから、たぶん、だけれど。
街道を東へ、馬車で半日。
翠の月の日差しは強く、麦畑の緑は深くなっていた。
窓の外を、刈り入れ前の風が波になって渡っていく。
父は道具袋を膝に置いたまま、ほとんど喋らなかった。
ただ一度だけ言った。
「条件は、もう紙にしてある」
「うん」
「向こうが呑むかどうかだ」
呑まなければ、受けない。
それは家を出る前に、父と決めてきたことだった。
◇◇◇
ヴェルメル卿の邸は、丘の中腹にあった。
石の壁。
高い窓。
門から玄関まで、馬車がもう一度走れるほどの道がある。
(——大きい)
(——でも、思っていたのと違う)
玄関の中は、静かだった。
飾りはあるけれど、多くない。
廊下の床は磨かれているのに、歩く使用人の数は少なかった。
案内に立った家令は、年配の男の人だった。
背筋がまっすぐで、声が低い。
「卿は執務の間でお待ちです」
歩きながら、わたしは天井を見た。
二階がある。
階段の上から、かすかに音がした。
弦の楽器の音。
途中で止まって、また始まる。
誰かいる。
家令はそちらへ、一度も目を向けなかった。
向けない、という動きだった。
(——一階は静かで)
(——二階は、見ないことになっている)
◇◇◇
執務の間は、思っていたより質素だった。
大きな机。
壁一面の棚に、帳簿と巻紙。
窓際に、領地の地図。
ヴェルメル卿は、机の向こうに立っていた。
五十がらみの男の人だった。
肩幅が広く、髪に白いものが混じっている。
上着は上等だけれど、袖口に墨の汚れがあった。
「よく来てくれた」
声は低く、急がなかった。
「座ってくれ。時計師どのも」
父が一礼して座る。
わたしも椅子に上がった。
足が床に届かない。
それを卿は見ていたけれど、何も言わなかった。
家令が茶を運んでくる。
わたしの前にも、父と同じ茶器が置かれた。
子供用の小さな椀ではなかった。
(——客として、数えられている)
茶は熱く、香りに知らない花が混じっていた。
机の上には、見覚えのある紙があった。
町の返答案。
コルネリアさんの、逃げ道の少ない四角が並ぶ紙だ。
「三つの条件を読んだ」
卿は紙の端を指で押さえた。
「急報は町が読める形を残す。読ませない相手を一括りにしない。失敗の責は設計者だけに置かない」
一つずつ、ゆっくり読み上げる。
「すべて呑む」
あっさりとした言い方だった。
わたしは思わず父を見た。
父は卿を見ていた。
「……値切らないのですか」
聞いてから、子供の言い方だったと思った。
でも卿は笑わなかった。
「値切った条件で作られた守りは、値切った分だけ薄くなる」
袖口の墨の汚れが、机の上で動いた。
「わたしは紙の仕事を知っている。領地の帳簿は、若い頃に自分でつけた。数字を一つ間違えると、どこが間違ったかを探す方が高くつく」
(——この人は、手を動かしたことがある人だ)
貴族の圧は、確かにあった。
でも、紙と数字の話が通じる相手でもあった。
◇◇◇
「ひとつだけ、聞かせてほしい」
卿は机の上で手を組んだ。
「なぜ、急報を外すことにこだわる。わたしの家の知らせをすべて隠す方が、設計は楽だろう」
わたしは少し考えた。
楽かどうかで言えば、楽だ。
全部を同じ箱に入れて、全部に同じ鍵をかける。
でも。
「先日、迷子の子供がいました」
「聞いている。塔が探したそうだな」
「あの急報が、もし読めない形だったら。中継の塔は、それが急ぎかどうかも分かりません」
卿の目が、少しだけ細くなった。
「速い知らせの網に、読めない結び目を作ると、網ごと遅くなります。卿の家の知らせも、いつかその網を通ります」
部屋が静かになった。
卿は背もたれに体を預け、それから短く言った。
「受けてくれるか」
父がわたしを見る。
決めるのは、わたしだ。
「受けます」
言ってから、付け足した。
「作るのは、読める人を限る仕組みです。誰にも読めない仕組みではありません」
「それでいい」
卿は頷いた。
「読めない手紙は、ただの紙だ」
◇◇◇
素案の話は、長くかからなかった。
わたしは鞄から紙を出し、二つの絵を描いた。
一つ目。
字を、別の字に置き換える。
「げ」を「ま」と書く。
「ん」を「お」と書く。
読む人は、置き換えの表を持っている。
二つ目。
字の順番を、並べ替える。
「げんき」を「きげん」と書く。
読む人は、並べ替えの順番を知っている。
「置き換えと、並べ替え」
卿が繰り返す。
「はい。守りの強さと、使う人の手間が違います。どちらをどこへ使うかは、これから決めます」
「表を持つ者が裏切ったら」
「表を取り替えます。だから、表は取り替えられる形で作ります」
鍵をなくした時の決まりを先に作る。
箱の頑丈さより、そちらが大事だ。
父が初めて口を挟んだ。
「表は、物になる。紙でも板でも、置けば盗まれる。燃やせば消える」
「だろうな」
卿は頷いた。
「物の置き場と見張りは、こちらの仕事だ。設計はお嬢さんの仕事。責は分ける——紙に書いた通りに」
紙に書いた通りに。
その言い方が、今日いちばん信用できた。
説明しながら、頭の隅で別のことを考えていた。
(——あの図面の主なら、これをどう作るだろう)
入口で確かめ、中継を軽くした、あの分け方の人。
あの人が暗号を作るなら、きっと表の配り方から先に決める。
考えてから、自分に少し驚いた。
会ったこともない、いるかどうかも分からない誰かの手つきを、わたしはもう設計の物差しに使い始めている。
◇◇◇
帰り際、卿は廊下まで送りに出た。
「次は表の作り方を相談したい。使者を行かせる」
「はい」
「それから」
卿は少しだけ声を落とした。
「この依頼のことは、家の者にも全ては知らせていない」
わたしは卿の顔を見上げた。
「読ませない相手の紙に、家中の者、と書いたのはわたしだ。意味は、いずれ分かる」
それ以上は言わなかった。
玄関を出ると、翠の月の夕方の光が石壁を黄色く照らしていた。
馬車が動き出す。
門を抜ける時、わたしは振り返った。
二階の窓に、人影があった。
弦の楽器の人だろうか。
顔は見えない。
逆光で、輪郭だけが立っている。
人影は、動かなかった。
馬車が丘を下りきるまで、ずっと。
(——読ませない相手は、家の外だけじゃない)
(——あの紙の一行は、この家の中を指している)
馬車の中で、父が低く言った。
「いい依頼主だ」
「うん」
「だから、気をつけろ」
父の言葉は、いつも短い。
短いのに、二階の窓まで届いていた。
■あとがき・解説
第139話は、ヴェルメル卿との対面と、暗号設計の入口の回でした。
今回は「置き換え」「並べ替え」「表の取り替え」についてゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「置き換え」——字を別の字にする
「げ」を「ま」と書き、「ん」を「お」と書く。
読む人だけが置き換えの表を持っている、という方式です。
歴史のうえでも、暗号はこの「換字」から始まりました。
シンプルですが、表が漏れたら終わり、という弱点もあります。
■「並べ替え」——順番を入れ替える
字そのものは変えずに、「げんき」を「きげん」と書く方式です。
字は全部見えているのに、順番が分からないと読めません。
置き換えと並べ替えは、組み合わせて使うことでお互いの弱点を補えます。
■「表の取り替え」——漏れる前提で設計する
リナが卿に答えた「表は取り替えられる形で作ります」は、この回の核です。
絶対に漏れない表を目指すより、漏れたらすぐ取り替えられる仕組みを先に作る。
現代の仕組みでも、秘密そのものの頑丈さより「漏れたあとにどう動けるか」の設計が大事にされています。
卿の家の二階には、誰かがいるようです。
次の話もお楽しみに。




