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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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139/211

第139話 貴族の依頼

出発の朝、わたしは手紙を一通、行商の荷へ預けた。


宛先はバルドゥス爺さん。


壊された塔のこと。

直した塔のこと。

それから、見えなかったもののこと。


見えなかったものも書け、と言われていた。

だから最後の行にはこう書いた。


煙も光も読めるようになったのに、壊しに来た人の顔だけが、まだ見えません。


返事は急がない。

爺さんの返事は、いつも忘れた頃に効く。


◇◇◇


迎えの馬車は、朝のうちに村へ来た。


商人の荷馬車とは違う。

車輪が軽く鳴り、座席に布が張ってある。


御者の隣には、あの使者が座っていた。

黒い上着。

白い手袋。


「本日は、卿が直接お話しになります」


使者はそれだけ言って、あとは黙った。


出がけに、エマはわたしの襟を二度直した。


「貴族様でも、リナはリナよ」


「うん」


「でも、襟は直すの」


お母さんの指は少し冷たくて、それでかえって落ち着いた。

ノラは門のところまでついてきて、馬車が見えなくなるまで手を振っていたはずだ。

振り返らなかったから、たぶん、だけれど。


街道を東へ、馬車で半日。

翠の月の日差しは強く、麦畑の緑は深くなっていた。

窓の外を、刈り入れ前の風が波になって渡っていく。


父は道具袋を膝に置いたまま、ほとんど喋らなかった。

ただ一度だけ言った。


「条件は、もう紙にしてある」


「うん」


「向こうが呑むかどうかだ」


呑まなければ、受けない。

それは家を出る前に、父と決めてきたことだった。


◇◇◇


ヴェルメル卿の邸は、丘の中腹にあった。


石の壁。

高い窓。

門から玄関まで、馬車がもう一度走れるほどの道がある。


(——大きい)


(——でも、思っていたのと違う)


玄関の中は、静かだった。

飾りはあるけれど、多くない。

廊下の床は磨かれているのに、歩く使用人の数は少なかった。


案内に立った家令は、年配の男の人だった。

背筋がまっすぐで、声が低い。


「卿は執務の間でお待ちです」


歩きながら、わたしは天井を見た。


二階がある。


階段の上から、かすかに音がした。

弦の楽器の音。

途中で止まって、また始まる。


誰かいる。


家令はそちらへ、一度も目を向けなかった。

向けない、という動きだった。


(——一階は静かで)


(——二階は、見ないことになっている)


◇◇◇


執務の間は、思っていたより質素だった。


大きな机。

壁一面の棚に、帳簿と巻紙。

窓際に、領地の地図。


ヴェルメル卿は、机の向こうに立っていた。


五十がらみの男の人だった。

肩幅が広く、髪に白いものが混じっている。

上着は上等だけれど、袖口に墨の汚れがあった。


「よく来てくれた」


声は低く、急がなかった。


「座ってくれ。時計師どのも」


父が一礼して座る。

わたしも椅子に上がった。

足が床に届かない。

それを卿は見ていたけれど、何も言わなかった。


家令が茶を運んでくる。

わたしの前にも、父と同じ茶器が置かれた。

子供用の小さな椀ではなかった。


(——客として、数えられている)


茶は熱く、香りに知らない花が混じっていた。


机の上には、見覚えのある紙があった。


町の返答案。

コルネリアさんの、逃げ道の少ない四角が並ぶ紙だ。


「三つの条件を読んだ」


卿は紙の端を指で押さえた。


「急報は町が読める形を残す。読ませない相手を一括りにしない。失敗の責は設計者だけに置かない」


一つずつ、ゆっくり読み上げる。


「すべて呑む」


あっさりとした言い方だった。


わたしは思わず父を見た。

父は卿を見ていた。


「……値切らないのですか」


聞いてから、子供の言い方だったと思った。


でも卿は笑わなかった。


「値切った条件で作られた守りは、値切った分だけ薄くなる」


袖口の墨の汚れが、机の上で動いた。


「わたしは紙の仕事を知っている。領地の帳簿は、若い頃に自分でつけた。数字を一つ間違えると、どこが間違ったかを探す方が高くつく」


(——この人は、手を動かしたことがある人だ)


貴族の圧は、確かにあった。

でも、紙と数字の話が通じる相手でもあった。


◇◇◇


「ひとつだけ、聞かせてほしい」


卿は机の上で手を組んだ。


「なぜ、急報を外すことにこだわる。わたしの家の知らせをすべて隠す方が、設計は楽だろう」


わたしは少し考えた。


楽かどうかで言えば、楽だ。

全部を同じ箱に入れて、全部に同じ鍵をかける。


でも。


「先日、迷子の子供がいました」


「聞いている。塔が探したそうだな」


「あの急報が、もし読めない形だったら。中継の塔は、それが急ぎかどうかも分かりません」


卿の目が、少しだけ細くなった。


「速い知らせの網に、読めない結び目を作ると、網ごと遅くなります。卿の家の知らせも、いつかその網を通ります」


部屋が静かになった。


卿は背もたれに体を預け、それから短く言った。


「受けてくれるか」


父がわたしを見る。


決めるのは、わたしだ。


「受けます」


言ってから、付け足した。


「作るのは、読める人を限る仕組みです。誰にも読めない仕組みではありません」


「それでいい」


卿は頷いた。


「読めない手紙は、ただの紙だ」


◇◇◇


素案の話は、長くかからなかった。


わたしは鞄から紙を出し、二つの絵を描いた。


一つ目。

字を、別の字に置き換える。


「げ」を「ま」と書く。

「ん」を「お」と書く。

読む人は、置き換えの表を持っている。


二つ目。

字の順番を、並べ替える。


「げんき」を「きげん」と書く。

読む人は、並べ替えの順番を知っている。


「置き換えと、並べ替え」


卿が繰り返す。


「はい。守りの強さと、使う人の手間が違います。どちらをどこへ使うかは、これから決めます」


「表を持つ者が裏切ったら」


「表を取り替えます。だから、表は取り替えられる形で作ります」


鍵をなくした時の決まりを先に作る。

箱の頑丈さより、そちらが大事だ。


父が初めて口を挟んだ。


「表は、物になる。紙でも板でも、置けば盗まれる。燃やせば消える」


「だろうな」


卿は頷いた。


「物の置き場と見張りは、こちらの仕事だ。設計はお嬢さんの仕事。責は分ける——紙に書いた通りに」


紙に書いた通りに。


その言い方が、今日いちばん信用できた。


説明しながら、頭の隅で別のことを考えていた。


(——あの図面の主なら、これをどう作るだろう)


入口で確かめ、中継を軽くした、あの分け方の人。

あの人が暗号を作るなら、きっと表の配り方から先に決める。


考えてから、自分に少し驚いた。


会ったこともない、いるかどうかも分からない誰かの手つきを、わたしはもう設計の物差しに使い始めている。


◇◇◇


帰り際、卿は廊下まで送りに出た。


「次は表の作り方を相談したい。使者を行かせる」


「はい」


「それから」


卿は少しだけ声を落とした。


「この依頼のことは、家の者にも全ては知らせていない」


わたしは卿の顔を見上げた。


「読ませない相手の紙に、家中の者、と書いたのはわたしだ。意味は、いずれ分かる」


それ以上は言わなかった。


玄関を出ると、翠の月の夕方の光が石壁を黄色く照らしていた。


馬車が動き出す。


門を抜ける時、わたしは振り返った。


二階の窓に、人影があった。


弦の楽器の人だろうか。

顔は見えない。

逆光で、輪郭だけが立っている。


人影は、動かなかった。


馬車が丘を下りきるまで、ずっと。


(——読ませない相手は、家の外だけじゃない)


(——あの紙の一行は、この家の中を指している)


馬車の中で、父が低く言った。


「いい依頼主だ」


「うん」


「だから、気をつけろ」


父の言葉は、いつも短い。


短いのに、二階の窓まで届いていた。


■あとがき・解説


第139話は、ヴェルメル卿との対面と、暗号設計の入口の回でした。


今回は「置き換え」「並べ替え」「表の取り替え」についてゆるく書いていきます。


■この話で出てきた言葉


■「置き換え」——字を別の字にする


「げ」を「ま」と書き、「ん」を「お」と書く。


読む人だけが置き換えの表を持っている、という方式です。


歴史のうえでも、暗号はこの「換字」から始まりました。

シンプルですが、表が漏れたら終わり、という弱点もあります。


■「並べ替え」——順番を入れ替える


字そのものは変えずに、「げんき」を「きげん」と書く方式です。


字は全部見えているのに、順番が分からないと読めません。


置き換えと並べ替えは、組み合わせて使うことでお互いの弱点を補えます。


■「表の取り替え」——漏れる前提で設計する


リナが卿に答えた「表は取り替えられる形で作ります」は、この回の核です。


絶対に漏れない表を目指すより、漏れたらすぐ取り替えられる仕組みを先に作る。


現代の仕組みでも、秘密そのものの頑丈さより「漏れたあとにどう動けるか」の設計が大事にされています。


卿の家の二階には、誰かがいるようです。


次の話もお楽しみに。


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