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魔力ゼロですが、魔法はぜんぶコードなので問題ありません 〜前世プログラマーの少女、キーボードで異世界をデバッグする〜  作者: せい | 健康優良不良プログラマ
第1部 ⑥「世界が、見つける」

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125/211

第125話 信号士という生き方

青の月の十六日。


夜明け前の西側塔は、油と湿った縄の匂いがした。


灯り箱の火はもう落とされている。

それでも箱の内側には、夜の熱が少しだけ残っていた。


わたしは父の後ろについて、木の階段をゆっくり上った。

眠気で足が少し重い。

十一歳の身体は、夜明け前の坂道に正直だった。


(——目が覚めているのは頭だけ)


(——足はまだ寝ている)


父は何も言わず、階段の途中で一度だけ振り返った。

わたしが手すりを握り直すと、そのまま上へ進む。


塔の上には、ヤンさんがいた。


革の上着の肩が夜露で濡れている。

目元の皺はいつもより深く、無精髭の下に疲れが残っていた。


それでも、遠くを見る目だけは眠っていない。


「来たか」


「はい」


父が灯り箱の蓋を開けた。

中の芯を見て、銅板の煤を指で拭う。


「芯はまだ使える」


「夜半に一度替えた」


ヤンさんは短く答えた。

それから足元の板を蹴るようにして、記録板をこちらへ寄せた。


板には、夜の間に通った短い伝言が並んでいた。


西の宿場、荷車一台遅れ。

三番塔、返答早い。

二番塔、交代あり。

急報なし。


字はきれいではない。

けれど、どの行も途中で投げていなかった。


「夜に、これを全部?」


思わず聞くと、ヤンさんは鼻で笑った。


「全部じゃない。見えた分だけだ」


「見えなかった分は」


「見えなかったと書く」


その答えが、耳の奥に残った。


見えないものを、見えたことにしない。

分からない理由を、人のせいにしない。


ここ数日で何度も聞いたことなのに、夜明け前の記録板の上では別の重さを持っていた。


◇◇◇


階段の下から、足音が二つ上がってきた。


ダンとニコだった。


ダンは肩に薄い布を引っかけ、まだ眠そうな顔をしている。

腰には昨日受け取った木札が下がっていた。

歩くたびに、木札が革紐に当たって小さく鳴る。


ニコは両手で読み札を抱えていた。

爪の間には、昨日の土が少し残っている。


「早ぇよ」


ダンがあくびを噛み殺しながら言った。


「番は早い」


ヤンさんは、それだけ返した。


「俺たち、今日は見学だろ」


「見学でも、朝は来る」


「なんでだよ」


ヤンさんは灯り箱を指で叩いた。


こつ、と乾いた音がした。


「夜に何が起きたか、朝に見ない奴は、夜番になれん」


ダンは口を閉じた。


ニコが記録板を覗き込む。

読み札の溝をなぞる癖のまま、板の行を指で追った。


「二番塔、交代あり」


「読めるか」


「字は、少しだけ」


ニコは顔を上げずに答えた。


「でも、交代の印は分かります」


ヤンさんが頷いた。


「最初はそれでいい」


ダンが木札を手で押さえた。


「番料もらうなら、字も覚えろって言われたぞ」


「覚えろ」


「簡単に言うな」


「簡単じゃねぇから、仕事になる」


その言葉に、ダンは何も返せなかった。


わたしは記録板の端を見た。

夜露で板の角が少し膨らんでいる。

何度も手で持った跡が、黒くなっていた。


(——仕事になる)


(——難しいから、誰かが担う)


前世なら、役割を分ける。

監視と記録。

運用と障害対応。

そう言えた。


でもここにあるのは、眠い朝の塔と油の匂いと、木札を押さえる太い手だった。


◇◇◇


父が布時計の小箱を開けた。


中の布は巻かれていない。

空の箱だ。


「今日は使わない」


父が言うと、ダンが少しだけ肩を落とした。


「せっかく起動の役も覚えたのに」


「使わない日の確認も要る」


父は箱の底を指で叩く。


「空でも、壊れていないか。金具は曲がっていないか。引き腕へ掛かるか」


ヤンさんが続けた。


「それと、使わないと決めた奴が誰か」


「誰か?」


「勝手に載せる奴がいる」


塔の上が少し静かになった。


偽の急報。

赤い札。

誰が始めたか分からない光。


いくつもの記憶が、朝の薄い空気の中で重なった。


「布は同じ伝言を何度でも出せる」


ヤンさんは、空の箱を見下ろした。


「だから、出していい時を決める奴が要る。止める奴も要る。あとで誰が決めたか書く奴も要る」


ニコが小さく頷いた。


「読めるだけじゃ、足りないんですね」


「読めるだけでも、足りてる時はある」


ヤンさんはニコを見た。


「だが一人だけだと、足りん時が来る」


その言い方は、責めていなかった。

ただ、夜の間に何度も見たものを置く声だった。


わたしは、灯り箱の銅板に映る朝の色を見た。

青の月の空は、まだ白くなりきっていない。


(——人を消すための機械じゃない)


(——人が一人で抱えないための機械)


その違いを、言葉にしようとして、少し迷った。


でもヤンさんは、もう次の板を出していた。


◇◇◇


それは、記録板ではなかった。


薄い木の板に、短い線がいくつも引いてある。

塔の番号。

番に入る人の名。

交代の時刻。

急報札を誰が持つか。

布時計を誰が載せてよいか。


「町の紙とは違う」


ヤンさんが言った。


「これは、塔番同士の約束だ」


父が板を覗き込む。


「町へ出すのか」


「まだ出さん」


「なぜ」


「役所の紙になると、直すのが遅い」


ヤンさんは、少しだけ口を曲げた。


「夜番は、夜のうちに困る。困ったら隣の塔へ言う。隣も同じことで困っていたら先にこっちで決める」


ダンが眉を寄せた。


「勝手に決めていいのか」


「勝手に町の決まりを変えるな」


ヤンさんはすぐに言った。


「だが、濡れた板をどこに置くか。眠気で見えなくなる前に誰を起こすか。布を載せる前に誰が止め板へ手を置くか。そういうのは、塔番が先に決めねぇと間に合わん」


ニコが、板の端にある短い印を指でなぞった。


「これ、間の印ですか」


「ああ」


「読む札と、少し違います」


「夜に読むからな。指で間違えにくくした」


ニコの目が少しだけ明るくなった。


「俺、こっちの方が分かります」


「なら、お前が直せ」


「え」


ニコの指が止まった。


ヤンさんは板を押し出した。


「読みにくい板を、読みにくいまま使うな。読んだ奴が直せ」


ニコは板を受け取らなかった。

受け取っていいのか分からない顔をしていた。


ダンが横から、少し乱暴に板の端を押した。


「持てよ。お前が分かるなら、俺も助かる」


ニコは両手で板を受け取った。


読み札より少し大きな板が、腕の中で斜めになる。

ニコは慌てて抱え直した。


「落とすなよ」


「落としません」


声は小さかった。

でも、逃げる声ではなかった。


◇◇◇


朝日が塔の縁に当たり始めた。


濡れていた縄が、少しずつ色を変える。

遠くの町の屋根が、白く光った。


ヤンさんは、革手袋を外した。

手の甲には古い傷がいくつもあった。

煙の皿を扱った跡。

縄を引いた跡。

火と風の近くにいた人の手だった。


「嬢ちゃん」


「はい」


「お前は、信号士を作ったと思ってるか」


わたしはすぐには答えられなかった。


符号表を作った。

灯り箱を作った。

布時計をつないだ。

名簿に職能名が載るところまで来た。


でも、ヤンさんの手を見ると、それだけでは足りない気がした。


「作った、とは言えないと思います」


「なんでだ」


「塔に立つのは、わたしじゃないから」


ヤンさんは少しだけ目を細めた。


「そうだ」


それから、空の灯り箱を叩いた。


「箱は、お前さんたちが作った」


次に、記録板を叩く。


「決まりは、役所が作る」


最後に、自分の胸を親指で叩いた。


「だが、夜に立つ腹は、こっちで作る」


腹。


その言い方が、ひどくヤンさんらしかった。


わたしは笑いそうになって、でも笑わなかった。

たぶん、笑っていい言葉ではなかった。


夜に立つ腹。

眠い時に見えたふりをしない腹。

急ぎたい時に待つ腹。

間違えた時に記録へ残す腹。


(——職能)


(——というより、生き方に近い)


前世で、仕事は肩書きだけではなかった。

レビューをする人。

障害対応で夜に起きる人。

誰かが壊れないよう、手順を決める人。


肩書きより先に、そういう腹があった。


「信号士は、塔に立つ生き方なんですね」


言葉にすると、少し大きすぎたかもしれない。


ヤンさんは鼻で笑った。


「大げさだ」


「すみません」


「だが、外れてはいない」


その短い言葉で、胸の奥が少し温かくなった。


◇◇◇


塔を下りる前に、ヤンさんは若い見張りたちを呼んだ。


ダンとニコも、その輪の端に立つ。

父は少し離れた場所で灯り箱の蓋を閉めていた。


「西側塔。二番塔。三番塔。街道の丘」


ヤンさんが順に言う。


「同じことで困ったら、記録板に残せ。次の荷車で隣へ回せ。役所へ出す前に、塔番同士で読め」


若い見張りの一人が聞いた。


「それ、決まりですか」


「まだ違う」


ヤンさんは言った。


「だが、決まりになる前の約束だ」


その言葉で、朝の塔の空気が少しだけ変わった。


町の規則ではない。

村長の帳面でもない。

でも、夜に立つ人たちが、自分たちのために横へ渡す約束。


それは、まだ小さかった。

記録板の端に書かれた細い線くらいのものだった。


ニコが抱えた板を見下ろす。

ダンが腰の木札を一度だけ叩く。


かつ、と乾いた音がした。


わたしはその音を聞きながら、階段に足をかけた。


塔の下では、青の月の朝の匂いが広がっている。


信号は、夜の空を渡る。


でも、その下には、夜が明けても残る約束が生まれ始めていた。


■あとがき・解説


第125話「信号士という生き方」でした。


今回は、信号士を「新しい仕事」として見る回です。


前回までで、信号士見習いは町の名簿と番料条件に載りました。

ただ、名簿に載っただけでは仕事は続きません。

夜に立つ人がいて、眠い朝に記録を見直す人がいて、困ったことを隣の塔へ渡す人がいて、ようやく通信網は毎日動きます。


ヤンが言った「夜に立つ腹」は、信号士という職能の芯です。

技術や制度だけでなく、現場で踏ん張る人の覚悟が必要になる、という話でした。


■この話で出てきた言葉


■「信号士」——塔に立ち、光を読む仕事


信号士は、短い光と長い光を読み、送信し、記録を残す人です。

半自動化が進んでも、信号士の仕事はなくなりません。

むしろ、いつ起動するか、いつ止めるか、誰が記録したかを見る役目が増えていきます。


■「塔番同士の約束」——現場から生まれる決まり


役所の正式な規則になる前に、現場の人たちが「これは揃えた方がいい」と決め始める段階です。

濡れた記録板をどこに置くか。

眠くなる前に誰を起こすか。

布時計を載せる時に誰が止め板へ手を置くか。


こうした細かい約束が積み重なると、やがて職能のまとまりや組合のような形へ育っていきます。


■「使わない日の確認」——機械を使うための準備


布時計は便利ですが、毎回使うとは限りません。

使わない日でも、箱が壊れていないか、金具が曲がっていないか、誰が使わないと決めたかを確認します。


機械は、動かす時だけでなく、動かさない時の決まりも大事です。


次の話もお楽しみに。


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