第100話 符号化の設計
朝の食卓には、豆が三つの山に分けられていた。
煮豆にする前の白い豆。
昨日ノラが遊びに使った小さな木片。
それから、お兄ちゃんから届いた古い手紙。
萌の月二十二日。
窓の外では、若い麦が朝の風に揺れている。
けれどわたしの目は、麦ではなく紙の上の文字を追っていた。
「また数えてるの?」
ノラが椅子の端に膝をかけて覗き込んだ。
「うん」
「何を?」
「よく出てくる音」
ノラは首を傾げた。
「音、紙にいる?」
「いるよ。声に出す前の音が、紙の中にいる」
そう答えると、ノラは少しだけ真剣な顔になった。
それから、豆の山を一つ指で押した。
「これも、音?」
「今は、数」
「むずかしい」
「うん。少し難しい」
(——わたしも、まだ難しい)
(——でも、昨日よりは形がある)
父は食卓の端で、紙を押さえていた。
押さえ方がいつもの工房と同じだった。
紙の端が丸まらないように、親指の腹で静かに止めている。
◇◇◇
昨日、狼煙台で見た短い煙と長い煙。
あれを一つだけ使えば、二つ。
二つ並べれば、四つ。
三つ並べれば、もっと増える。
そこまでは分かった。
でも、増えればいいわけではなかった。
「全部同じ長さにすればいいんじゃないのか」
父が言った。
「例えば、煙三つで一文字。短い、長い、短い。長い、短い、長い。そう決める」
「それでもできます」
わたしは頷いた。
「でも、よく使う音まで長くなる」
父の眉が少しだけ動いた。
「長いと困るか」
「煙は待つものだって、ヤンさんが言ってました」
紙の上に、短い線を一本引く。
その横に、長い線を一本引く。
「よく使う音を短くすれば、待つ時間が少し減ります」
父は黙って、わたしの線を見た。
「少し、か」
「はい」
「その少しを積むのか」
「はい」
父は短く息を吐いた。
「なら、数えろ」
その一言で、やることが決まった。
◇◇◇
エマが戸棚から古い紙束を持ってきてくれた。
家計の覚え書き。
布の注文を書いた紙。
お兄ちゃんからの手紙。
わたしが王都へ返すために書きかけた下書き。
「全部を混ぜていいの?」
エマが聞いた。
「ううん。お兄ちゃんに送る言葉に近いものを多めにしたい」
「なら、家の中の言葉ね」
エマはそう言って、お兄ちゃんの手紙を一番上に置いた。
その上に、ノラが受け取った木片の包み紙をそっと重ねる。
包み紙には、ヨハンの字で短く「ノラへ」と書かれていた。
「これも、入れる?」
「入れる」
ノラが胸を張った。
「ノラの」
「うん。ノラの」
わたしは紙の端に、音の表を書いた。
あ。
い。
う。
え。
お。
その下へ、家族の名前に出てくる音を足していく。
リ。
ナ。
ヨ。
ハ。
ン。
ノ。
ラ。
本当は、もっときちんと全部の音を並べなければならない。
でも今日は、全部を完成させる日ではなかった。
まず、よく使うものを見つける日だった。
◇◇◇
わたしは手紙を一行ずつ読み、出てきた音の横へ豆を置いた。
お兄ちゃん。
元気。
町。
夜番。
母さん。
父さん。
ノラ。
リナ。
同じ音が出るたびに、豆が一つ増える。
最初は楽しかった。
けれど三枚目の手紙に入る頃には、指先が疲れてきた。
十一歳の手は、思ったより小さい。
豆をつまむだけなら簡単なのに、何度も同じ場所へ置くと指の付け根がだるくなった。
(——表計算がほしい)
(——でも今は、豆)
わたしは小さく息を吐いて、もう一粒を置いた。
ノラは途中で飽きたらしく、自分の前に豆の家を作り始めている。
エマはそれを止めず、わたしの横で紙を揃えてくれた。
父は何も言わない。
ただ、豆が多い列を見つけるたびに、そこへ小さな木片を置いた。
「これは多い」
「はい」
「これも多い」
「はい」
父の木片は、わたしの代わりに目印になった。
◇◇◇
昼前には、いくつかの山がはっきりしていた。
家族の手紙では、人の名前に出る音が多い。
それから「元気」「帰る」「待つ」「行く」に出る音も多い。
わたしは一番高い豆の山を見た。
「これを短くします」
短い線を一本、横に書く。
次に多い音には、長い線を一本。
その次には、短い線と短い線。
さらに次には、短い線と長い線。
父が、紙の上を指でたどった。
「短いのが先か」
「はい。よく使うものほど、短く」
「珍しいものは長くてもいい」
「たまにしか使わないから」
父は頷いた。
「歯車と同じだな」
「歯車?」
「よく動く軸ほど、軽くする。滅多に動かない軸に、重いものを持たせる」
わたしは瞬きをした。
紙の上の短い線が、父の言葉で急に木と鉄の重さを持った。
(——そうか)
(——これは、軽くする場所を決めてるんだ)
よく通る道を広くする。
よく動く軸を軽くする。
よく使う音を短くする。
全部、同じだった。
◇◇◇
「でも」
父が言った。
「短いのと長いのだけでは、どこで一文字が終わるか分からん」
わたしは頷いた。
「間が要ります」
紙の上に、小さな空白を指で作った。
短い線。
長い線。
少し空ける。
次の線。
「煙が切れたら終わり、では足りないです。短い煙の中の切れ目と、一文字の終わりの切れ目を分けないと」
「息で数えるのか」
「最初は。でも、できれば時計で」
父の目が、少しだけ工房の方へ動いた。
「短い間。文字の間。言葉の間」
「はい」
「三つ要る」
父は紙の端に、木片を三つ置いた。
小さい木片。
少し長い木片。
一番長い木片。
「これを間違えると、全部ずれる」
「はい」
前世で読んだ読みにくいログを思い出した。
改行も区切りもない文字列。
どこからどこまでが一つの値なのか分からない行。
あれは、読めない。
煙も同じだ。
(——短い、長い、間)
(——間も、文字の一部だ)
◇◇◇
わたしたちは食卓から工房へ移った。
父は作業台の上に、古い小さな振り子時計を置いた。
水門の試作に使ったものよりずっと小さい。
針は外されていて、軸だけが見えている。
「時を刻むなら、これを使う」
父は次に、歯車の入った箱を開けた。
「開ける。閉じる。待つ。もう一度開ける」
父の太い指が、歯車を四つ並べた。
「それだけなら、機械でできる」
「短いか長いかは」
「布に聞く」
父はそう言って、わたしを見た。
胸の奥が少し熱くなった。
母の織機。
父の時計。
ヤンさんの遮蔽板。
昨日見た着火魔石。
ばらばらだったものが、机の上で順番に並んでいく。
まだ繋がってはいない。
歯車も布も、ただ置かれているだけだ。
魔石もここにはない。
でも、何が足りないかは見え始めていた。
「布には、短いか長いかを覚えさせます」
「時計が長さを決める」
「歯車が板を開け閉めする」
「魔石は」
父がそこで止まった。
わたしも止まった。
昨日、狼煙台で見た魔石の縁の光が、一瞬だけ頭に戻る。
でも今日は、そこへ手を伸ばさない。
「そこは、まだです」
父は頷いた。
「なら、まだ触らん」
その短い言葉で、ほっとした。
◇◇◇
エマが工房の入口から覗いた。
「お昼にする?」
ノラがその後ろから顔を出した。
両手には、さっきまで遊んでいた豆が握られている。
「ねぇね、音のおうち、できた?」
わたしは作業台の上の紙を見た。
短い線。
長い線。
豆の山。
三つの間。
父が置いた歯車。
「まだ、家じゃない」
「じゃあ、なに?」
少し考えた。
「柱を置く場所」
ノラはよく分からない顔をした。
でも、納得したように頷いた。
「じゃあ、ごはん食べたら、おうちにする?」
父が小さく咳をした。
エマが笑いをこらえるように口元を押さえた。
わたしも少しだけ笑った。
「うん。少しずつ」
昼の光が工房の床に落ちていた。
紙の端で、短い線と長い線が静かに並んでいる。
それはまだ、お兄ちゃんに届く言葉ではなかった。
でも、もうただの線でもなかった。
■あとがき・解説
第100話は、狼煙を「合図」から「文字」に変えるための設計回でした。
家族の手紙を数え、よく使う音を短くし、煙の間まで情報として扱う。
今回は「よく使う音」「間」「まだ完成ではないこと」についてゆるく書いていきます。
■この話で出てきた言葉
■「よく使う音を短くする」——頻度を見て符号を決める考え方
リナが今回やっているのは、現代でいう頻度分析に近い考え方です。
たくさん使う音を短い符号にすれば、全体の送信時間を短くできます。
ただし、今回はまだ完成した符号表ではありません。
家族の手紙を数え、最初の考え方を掴んだ段階です。
■「間も情報」——煙が出ていない時間にも意味を持たせる
短い煙と長い煙だけでは、どこで一文字が終わるのか分かりません。
そのため「短い間」「文字の間」「言葉の間」を分ける必要があります。
これは後の装置設計でも重要になります。
■「まだ完成ではない」——設計は入口に立ったところ
今回見えたのは、穿孔布、時計、歯車、遮蔽板をどうつなぐかという入口です。
魔石との接続点はまだ触っていません。
そこはこの先の試作と失敗を経て、狼煙装置の山場へ進みます。
第100話という節目ですが、通信の仕組みとしてはまだ小さな設計図です。
ここから実際の装置へ一歩ずつ近づけていきます。
次の話もお楽しみに。




