第18話:上流階級の入口
「人を見た目で判断してはいけない」
これは誰もが一度は耳にしたことがある警句だろう。
みすぼらしい老婆だと思って粗略に扱ったら、実は魔女で王子を野獣に変えてしまう。
そんなおとぎ話が古今東西繰り返し語られてきた程度には、人は目に見えないものを見極める大切さを理解している。
しかし、頭で理解していることに現実が追いつかないのもまた、世の常。
確かに、目で見たところでその人の性根の部分は見えてこない。
それでもその人の所属、つまりどの階級に属するかは、見る人が見ればかなり正確に読み取ることができる。
歴史を紐解いてみても、有史以来、人類はその身に纏うもので他者を判断してきた。古代エジプトでは亜麻布の質と白さが身分を表し、中世ヨーロッパでは色彩そのものが権力の象徴だった。紫は皇帝の色であり、庶民がそれを身に付けることは法律で禁じられていた時代すらある。
産業革命以降、大量生産によって衣服の民主化が進んだ。誰もが同じ生地を、同じデザインで着られるようになった。
しかし、だからと言って人は目に見える情報で人を判断することをやめたわけではない。
なにせ、人間は他者との差を見出すことに懸けては、誰もが天才的な能力を持っているのだ。
服一つとっても、素材、縫製、シルエットと、その細部にはたくさんの情報が内包されている。 仮に服から情報が読み取れなかったとしても、靴、腕時計、バッグ、果ては太っているか痩せているか、その肉体にどれだけ投資されているかまで含めれば、見るべきところはいくらでもある。
結局のところ、目を閉じたままで人が人を判断することは不可能なのだ。
そのことをよくよく理解し、週2回のジム通いを欠かさないタカシから、シュウジは礼服一式を買い揃えるように命じられた。
地獄のダンジョンから生還して5日目、人生で初めてフレンチのコース料理を食べた翌日のことである。
当初、タカシとシュウジは激しくぶつかった。
より正確には、タカシが一方的にシュウジを恫喝したのだ。
「おまえの人権は既にない。知っていることをすべて吐け」
絶対権力者かつ強面のタカシにそう迫られれば、年齢関係なく即座に全面降伏するのが普通である。しかし、14歳のシュウジは白旗を揚げる代わりに一つの条件を出すことで交渉を行った。
その条件とは、己が身分の保証である。
戸籍上死去したことになった自分では、仮に亜空間庁の療養施設から釈放されたところで、住むところも無ければ学校に通うこともできない。自分はシュウジだと言ってあすなろ黎明園に保護を求めたところで、姿かたちが変わってしまった以上は、信じてもらえるとも思えない。
となれば、あとは容姿を活かして夜の街で日銭を稼ぐくらいしか、生きていく方法が見当たらない。それこそホムラのように男の娘が好きなおぢさんに買ってもらうか、有閑マダムの相手をするか。
そのどちらもイヤとなれば、何をおいても戸籍が必要になる。
戸籍を得て、まずは無事に中学を卒業して高校に進み、あわよくば大学に行くのだ。
そのためにも、自分の条件が受け入れられないのであれば情報は出さない。もし拷問や自白剤を使って情報を引き出そうとするのなら、真実の中に偽証を混ぜて、可能な限りの損害を与える。
内心では震えつつの強弁に対するタカシのアンサーは、実に意外なものであった。
それは、もし情報開示をするならとの条件付きで提示された、二つの選択肢である。
一つは適当な戸籍だけ与えられて保護施設から解放されるというもの。
そしてもう一つは、今出川の姓を与えられ、タカシの養子になるというものである。
そのあまりの突飛な提案に当然シュウジは面食らった。
しかし両者を比較すれば、何度算盤を弾いても、利は後者の選択肢にあるように思われた。
そもそも、それまでの生活基盤の全てを失った状態で放り出されたら、またどこぞの養護施設に転がり込まなくてはならなくなる。そしたらこれまでの経緯については絶対に訊かれるが、説明は容易ではない。
それが面倒だと警察に行ったところで、「ぼくは日野シュウジです。国に戸籍を奪われたんです!」との主張が受け入れられるとは到底思えない。顔が違うのだから。
斯様の思案を経て、果たしてシュウジはタカシの養子となることを決めた。
総理大臣を輩出した名門、今出川家の当主であるタカシの養子になることが何を意味するか、その正確なところはシュウジには分からない。それでも、消去法に照らせば、シュウジがとれる選択肢は一つしかなかった。
エアコンの利いた車内から外に出ると、全身には真夏の太陽が容赦なく照り付けた。
降り立ったのは世界中の高級ブランド店が軒を連ねる、東京・銀座。
同じ都内とは言え、養護施設出身のシュウジにはこれまで無縁の土地だった。
「それでは、終わるころにまたお迎えに上がります」
車窓を開けてそう言うと、一ノ瀬キョウコは黒のアルファードを走らせ、通りを流れる車列の中に溶け込んで行った。
子供相手にも馬鹿丁寧。スラリとしてスタイルが良く、顔立ちも整っているが滅多に歯は見せず、感情らしいものは読み取れない。
そ
の取っ付きにくさのせいで、収容されている川崎の施設からここまでの車中、少年と運転手の間には会話らしい会話は生じなかった。
「ああいうのを、クールビューティーって言うのかな……」
「何がクールビューティーなの?」
無意識の呟きに対して背後から応答があった。驚いて振り返ると、そこには白い日傘をさしたタカシの秘書、清水谷アイが立っていた。
「あ、いや、別にそう言うんじゃなくて……」
「ふふっ。シュウジくん、今日はよろしくね」
不意を突かれてアタフタとするシュウジに、アイは悠然と微笑を向けた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
シュウジはそう言って、慌てて頭を下げた。
正直なところ、アイの笑顔は今のシュウジには直視できないレベルで目の毒である。
なにせ、これまでの人生において、これほど華のある女性と関わったことがなかったのだ。
周囲にいる大人の女性と言えば、あすなろ黎明園みんなのお母さんである保母の木村と、学校の教師くらいのもの。保母も教師も大人の女性として最低限の化粧くらいはするのだろうが、この私設秘書は根本からして違う。
同い年の娘がいるのだから、年齢はどんなに若くても30代前半だろう。
なのにその肌には、そこらの女がいくら安化粧を重ねたところで得られないような、若々しい透明感に満ちていた。
また、顔立ちは少女のように可憐であり、スッと通った細い鼻筋と、小作りで完全な対称形をした唇、涼しげで大きな瞳と、ひとつひとつのパーツが高いレベルでまとまっていた。
――この人は住んでる世界が違う
そう思い込むことで心の距離を保ちたいシュウジ。
しかし、アイはそんな内心など知る由もなく、ごく自然に距離を詰めてきた。
「ほら、行こう」
アイはそう言って、立ち尽くしているシュウジの顔を下から覗き込んだ。本日のこの女性は、礼服どころか服も自分でまともに買ったことのないシュウジをアテンドしてくれることになっていた。
「今日もほんっと、陽射し強いね」
歩行者天国になっている目抜き通りを、アイと並んで歩く。通りは人で溢れかえり、道の真ん中には濃いグリーンのパラソルが並べられ、その周囲に配置されたたくさんの椅子はその全てが埋まっていた。
彼らは手に持ったアイスコーヒーを飲んだり、連れ合いと談笑したりと夏空の下で、思い思いの時間を過ごしている様子。
気温は高いが、商業施設の開け放たれたドアから流れてくる冷気とドライミスト、それに各所に置かれた氷柱による対策も見て取ることができた。
「銀座って初めて来たけど、意外とオープンなんですね。勝手なイメージだけど、もっとフォーマルな感じかと思ってました」
先を行くアイの一歩後ろから、シュウジが声をあげた。
「んー、曜日と時間帯によるかな。今日は週末だから、人も多くてホコ天も賑わってるけど、夜はまた全然雰囲気違うのよ?」
「そうか、今日は土曜日か。だから昨日とは服装が違うんですね!……と言うか、すみません。せっかくの週末なのに付き合ってもらって」
昨日は黒のジャケットだったのに、今日はオフホワイトのサマーニット。
ファッションのテイストがガラリと変わった理由に、軟禁生活によって曜日間隔を失っていたシュウジが納得しかけたところで、アイの苦笑が返ってきた。
「ふふ。勘違いしているようだけど、政治家と秘書にとっては土日こそが繫忙期なのよ?冠婚葬祭や地元行事を回らなくちゃいけないもの。だけど、わたしはタカシさんの計らいで土日のどっちかはお休み貰えることになってるし、そもそも今日は仕事扱いで代休貰えることになってるの」
「あ、なるほど。でも、いいんですか?アイさんはパーティーの華なんでしょ?」
「ちゃんと調整すれば大丈夫。それにタカシさんはいつも大げさだからああ言ったけど、冠婚葬祭でゲストの秘書が目立つのはNGよ」
アイが可笑しそうにクスクスと笑った。
「だから気にしないで。それに、キミの買い物に付き合うの、ちょっと面白そうだし」
程なくしてアイが立ち止まったのは、銀座の中央通りにそびえ立つ、とあるファッションブランドの旗艦店だった。建物は2階部分まで重厚な黒大理石とガラスに覆われていて、入口上部にはBから始まる筆記体が躍っている。
ショーウィンドウには、芸術品のように仕立てられたトルソーが数体飾られているが、値段を示すプレートなどどこにもない。
「値段を気にする人間は入るな」という、強烈なまでの門前払いがそこにはあった。
「タカシさん愛用のお店で揃えようと思うけど、いいよね」
そう訊かれても、シュウジには頷くしか選択肢が無い。
アイが歩み寄ると、真鍮の重厚なドアノブに触れるより早く、内側に控えていた白手袋のドアマンが恭しく扉を開け放った。
店内は、寒暖差で風邪を引くんじゃないかと思うほど涼しかった。
足音を吸い込む毛足の長い絨毯を踏みしめてアイがフロアを進むと、すぐに年嵩の店員が現れ笑顔を向けてきた。
「これはこれは、清水谷さま。この暑い中、ようこそいらっしゃいました。今出川長官にはいつも格別の御贔屓を賜り、大変光栄でございます。本日はどのようなご用向きでしょうか?」
「今日はこちらの少年のスーツを見繕いたいと思って来ました」
アイの手が向けられたことで、すぐさま店員がシュウジに目を向けた。シュウジは半袖のTシャツにストレッチデニムという出で立ち。キョウコが量販店に出向き、まとめて買って来てくれたものからのチョイスである。
「失礼ですが、この方は……?」
「彼は今出川家の縁者で、この度タカシの養子になったシュウジです」
アイの紹介に合わせて軽く頭を下げると、店員の顔がサッと引き締まった。
「失礼いたしました。わたくし、この店の店長を任されております、松田と申します。以後、どうぞよろしくお願いします」
そう言って差し出された名刺をどうしていいものか、シュウジは困惑した。
一瞬の逡巡の後、「どうも」と言って片手で受け取り、名刺の文字を一瞥してから尻ポケットに納める。
少年のそんな所作など気にする様子もなく、松田は「それでは5階のVIPルームへご案内いたします」と言ってふたりを誘った。
他の客の視線を遮るように設置された、奥の隠しエレベーター。
連れていかれた先は、全面ガラスから陽光が差し込む、静かで広々とした空間であった。あるのは革張りのソファと全身鏡、それにジャケットが吊るされたハンガーラックばかりで、客どころかスタッフの姿すらない。
「いま、フィッターが参りますので、少々お待ちを」
松田はそう言うと、ラックに向かってシュウジに合いそうな服を見繕い始めた。
アイはと言えば、ゆったりとソファに腰を掛け、お手並み拝見とばかりにその様子を眺めている。
――なんだか、世界が違うよな
ハイブランドの旗艦店にひっそりと設けられたVIPルーム。
窓際に寄れば、真夏の太陽に焼かれたアスファルトと、その上を行きかう無数の歩行者を見下ろすことができる。
そこは都会の中心にあって、都会の喧騒と熱気から最も遠い場所であった。
「シュウジくん、これちょっと着てみて」
アイに手招きされ、ジャケットを手渡された。それが取り敢えずの急場凌ぎとしてキョウコが買ってきたものと根本からして違うことは、目の肥えていないシュウジでもわかった。
色は漆黒よりもなお深い、光沢のあるミッドナイトブルー。触れた指先から伝わるのは、布地とは思えないほどしっとりとした、生き物の皮膚のような質感だった。
袖を通して鏡の前に立つと、そこには育ちの良さそうな見知らぬ少年がこちらを見つめていた。
「悪くないじゃない」
満足そうに目を細めた美女が、鏡の向こうからそう呟いた。
その手前に佇む少年が、少しだけ笑った。




