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第16話:義理の親子(前)

今の日本の総理大臣は誰か?


この質問をされれば、日本人のほぼ全員が「島津ヨリコ」と答えるだろう。

外国の主要国においても、一定以上の割合で「シマヅ」の名が返ってくるはずだ。GDP規模で見れば未だに経済大国と呼べる日本のトップが誰か、今は国内外に正しく知れ渡っている。


だが、この安定した状況は、決して当たり前のものではなかった。


時計の針を少し戻せば、日本は5年弱の間に首相が7度も交代する異常な混迷期にあった。

諸外国で日本の総理を尋ねても、「イマデガワの後の誰か」と鼻で笑われるような始末。泥沼の権力闘争と連立の離合集散は、国家としての価値を大きく毀損し、国際社会でのプレゼンスを地に墜とさせた。


この惨状を招いた原因は、ひとえに政治家たちの愚かな足の引っ張り合いにある。

しかし、彼らに一つだけ同情すべき点があるとすれば――それは、失われた「今出川ヤスシ」という存在が、あまりにも大き過ぎたことだ。


参議院の廃止、成人年齢の引き下げ、そして突如出現したダンジョンに対する管理体制の確立。

誰もが不可能と考えた三大政策を次々と成し遂げたヤスシは、まさに「政界の北極星」であった。その絶対的な道標を不意の暗殺によって失えば、自進党が暗闇の中で迷走を始めるのは必然だったと言える。


だが、そんな歴史に名を刻む巨星も、表に出せない私的な関係を持っていた。

親子ほども年の離れたひとりの女性、清水谷アイの存在である。


ふたりが出会ったのは、ヤスシが設立にかかわった私立高校、桐桜学園。

当時のアイは17歳の女子高生であり、ヤスシは妻に先立たれた直後の52歳であった。


世間体を気にして、ふたりが籍を入れることはなかった。

しかし、ヤスシはアイを確かに大切にしていたし、アイの方はと言えば、高校を卒業して間もなく、ひとりの娘を出産している。


ヤスシが暗殺によって唐突にこの世を去ったのは、アイが23歳、ひとり娘のリカコが5歳の時である。


——その死は、ふたりの生活そのものを奪った。


なにせ、アイは社会的には内縁の妻ですらなかったのだ。それは最愛の人を失った悲しみに暮れる間もなく、生活の糧を得るための術を完全に失うことを意味した。


途方に暮れる彼女に救いの手を差し伸べたのは、他でもないヤスシの息子、タカシだった。

以来、アイはタカシの私設秘書として働くこととなったのである。



件の大災害から2週間近くが過ぎた、7月下旬のことである。

東京都渋谷区――タカシの選挙区である東京7区――に居を構える今出川政治事務所は、一時の野戦病院のような慌ただしさから、徐々に落ち着きを取り戻し始めていた。


電話機のコール音が嵐のように一斉に鳴り響く時期は、もう過ぎている。

それでも断続的に入電はあり、加瀬の情感たっぷりの声が、今日もフロアに響いていた。


「……はい、その件につきましては長官も大変心を痛めておりまして……」


加瀬は「声が良い」との理由で採用された30代の女性である。クリアなアルトボイスは耳に心地よく、確かにタカシが褒めるのも納得の声質。秘書としての採用なので業務範囲は多岐にわたるが、特に電話での応対が彼女の仕事だ。


特にこの2週間は、後援会や魔炭関連の事業会社、大手メディアの番記者、果ては自進党の議員秘書なんかからも探りを入れるような電話がひっきりなしに掛かってきていた。

彼らに対して、不用意な言質も悪印象も与えない。その厄介な任務に際して、加瀬は三面六臂の大活躍を見せている。


もっとも、回答の内容や方針の叩きを考えたのは、清水谷アイだ。

それをタカシが承認した後、加瀬たちがスピーカーとして発信するというのが、今出川政治事務所の役割分担となっている。


アイや加瀬の雇用主であり、事務所に名前を冠するタカシはと言うと、ここのところずっと永田町に出ずっぱりとなっていた。

史上4回目、かつこれまでとは比較にならないほどの犠牲者を出した魔素噴火が発生してことで、対応に忙殺されていたからである。


そんなタカシが、今日になって事務所に姿を現した。


「清水谷さん、ちょっと」


事務所に現れるなり、足を止めることなくそう言って執務室の中に消えたタカシ。

その言葉に最初に反応したのは、インタビュー依頼や会合案内といったメールの仕分けに没頭していたアイではなく、電話の切れ目で一息ついていた加瀬だった。


「お茶はわたしが淹れてお持ちしますよ」


そう言って加瀬が給湯室に向かったのは、本人の献身的な気質以上に、尊敬する先輩であり、事務所の女主人に対するポイント稼ぎが理由だった。

アイは「ありがとう」と少し小声でお礼を言った後、タカシが待つ執務室の扉をくぐった。


――少し瘦せたわね


オフィスチェアに深く腰掛けたタカシを一瞥し、アイはそう思った。

身体つきは相変わらずがっしりしているが、目の下に黒く落ちた影が、彼が背負う重圧を如実に表している。


「先生、本当にお疲れ様です。こちらにいらっしゃるのは随分と久しぶりですね」

「いやぁ、清水谷さんもお疲れ様。こっちの事務所、すっかり任せっきりにしちゃって悪かったね。さすがに大変だったでしょ?」


言葉とは裏腹に、タカシに悪びれる様子がないのはいつものことだった。


「何か急ぎで相談したい事はある?」

「いえ、基本的にはメールでご報告している通りですので。ただ、既に対応済みならば問題ないのですが、斯波グループについては……」

「ああ、それについてはいったん放置でいいよ。対応はしてないけど、対策は考えてあるから」


斯波グループはヤスシ時代から今出川親子を支えてくれている大事なスポンサーである。グループは重工業を核に幅広い事業を展開しているが、近年は魔炭事業に参画したことでタカシとの関係も深くなっていた。


魔素噴火が発生し、ダンジョンが閉鎖されたとあっては斯波グループも気が気ではないだろう。この2週間のうちに、グループ総裁の斯波ヨシハルから直接の電話が3度も掛かってきていた。


その内容は純粋なお願いから始まり、続いて脅迫交じりの哀願となり、ついには哀願混じりの脅迫となっていた。

つまり、「一度今出川先生と直接お話をさせて欲しい。それが叶わないのであれば、今後の支援が難しくなる」と言うのが最終的な先方の言い分である。

このことは、もちろん都度タカシへ報告していたが、本人からの反応が鈍いのをアイは懸念していた。


しかし、タカシが問題ないと言うなら、アイにもそれ以上深追いする理由はない。

扉がノックされた後、「失礼します」と言って加瀬が部屋に入ってきた。


「先生、だいぶお疲れのようですが、大丈夫ですか?」

「政治屋になってから一番しんどい2週間だったけど、まぁなんとか。加瀬さんも大活躍だって聞いてるけど、ありがとうね」


お茶を配膳する加瀬を見遣りつつ、労いの言葉を掛けるタカシ。

しかし、その表情や声色から何かを感じ取ったのだろう。加瀬は「いえ、恐縮です」と言うと、お盆を胸に当てるようにしてそそくさと部屋を出て行った。


扉が閉まるのを待ってから、タカシは「さて」と切り出した。


「アイさんさぁ、今日のお昼は時間ある?」

「はい、大丈夫です」

「いやぁ、大した事じゃないんだけど、ちょっと会ってほしい人がいてね……俺の遠縁の親戚で、14歳の男の子なんだ」


そう言われても、アイはぜんぜんピンと来なかった。


――14歳の男の子?そんなのいたかしら?


「どうだろう?ソイツを交えてこれからご飯でも」

「もちろん構いませんが、わたしを同席させる理由は何でしょうか?」


アイの問い掛けに、タカシは一度、思案気に視線を中空に彷徨わせた。


「……知っての通り、俺には子供がいない。嫁もずっと海外に行ったきり、いつ帰ってくるのかすらはっきりしない。それでも、家の事を考えれば跡継ぎは必要だからな。思い切って養子を取ろうと思ってるんだ」

「いろいろお尋ねしたいことはありますが、まずそのこと、奥様はご存じなんですか?」


そう問い質すアイの声は、意図せず鋭いものになっていた。

タカシの嫁、今出川サクラコは考古学をライフワークとする36歳であり、ここ数年は中央アジアでの遺跡発掘に精を出していた。過去にはタカシの子供を2度身籠ったが、1度目は流産、2度目は出産前の検査で障害を持っていることが判明し、夫の判断で堕胎させられている。


以来、夫婦仲がギクシャクしていることを、アイはタカシ、サクラコの双方から聞かされていた。


「まだ知らせていない。と言うより、ソイツを本当に養子にするかもまだ未確定だ。本当ならサクラコに為人を見てもらうのが一番なんだが、あいにくアイツは海外で遺跡堀りに忙しい。そこで、その代役をアイさんに頼みたいんだ」

「……わたし、ですか?」


タカシからの無邪気なお願いに、アイは思わずため息を漏らしてしまっていた。

妻があれほど悲しい思いをしたというのに、夫であるこの男は相談一つせず、見ず知らずの14歳を突然家に入れようとしているのだ。


「先生からの命令であればイヤとは言いません。ただ、こういうのは家族の事ですから――」

「何言ってんの!アイさんは家族みたいなものでしょ?よし、じゃあさっそく行こうか!店はもう抑えてあるんだ」


アイとしては気乗りしなさを精一杯表明したつもりだったが、時と場合に応じて、グレーゾーンの中で己に最も都合が良い部分を切り取るのがタカシという人間である。


――サクラコさんには、わたしの方から一報入れておいた方が良さそうね


ため息を飲み込んだアイは、微苦笑を浮かべて「はい」と応じた。

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