バニラな女の子
***
……いまだかつて、こんなに人を無視した事があるだろうか。
クラスのみんなは私と瑛太が幼馴染みなのを知っているから、私の瑛太に対する態度に戸惑いを隠せないらしい。
「ねえ、春。浅田となんかあったの?家隣同士なんでしょ?裸を見られたとか?!」
だの、
「川瀬。瑛太を見るお前の眼は刃物みたいで怖いぞ」
とか、とにかく喧嘩の原因を突き止めたいらしい。
でも、でもね。
あんなこと、みんなに言えないでしょ?!
私が瑛太との経緯を話したのは、菜穂だけだ。
浪川に至っては瑛太から何か聞いているのかいないのか、定かではない。
一方瑛太はというと、別段私を避けている感じはなく、話しかけてはこないものの、とりわけて態度に変化はない。
そこがまた、腹が立つのよ!
なんか私ばっかが勝手にプンプンしてるみたいじゃん。
「いやいや、その通りでしょう。春がひとりでキレてるんじゃん」
二時間目の休み時間に急がないと売り切れてしまうビッグ焼そばパンを辛うじてゲットした菜穂は、ご機嫌のあまり口を滑らせた。
「何ですって?!菜穂は瑛太の味方なの?!」
「いやいや、味方っていうか、気の毒というか」
「大体ね、あんなエロい雑誌を隠し持って毎晩見てる挙げ句に、甘ったるい匂いの女にも手を出すような男になっちゃった事実が嘆かわしいのよ、私はっ」
「はー。美味い。やっぱビッグ焼そばパンは美味い」
「……とにかく、もう瑛太なんか知らん」
「やっぱ、浅田が気の毒……」
私はツンと横を向いて菜穂から眼をそらした後、焼そばパンにかぶりついた。
***
金曜日の朝。
「川瀬ー、あしたは敬清高校と練習試合だから、今日は練習軽めで一時間で上がるんだ。買い出しのあと、グランド整備頼んでいいかー?」
浪川が、教壇から一番後ろの席に座っていた私を見た。
「オッケー。ねえ、買い出しは誰と行けばいいの?三木さん?」
すると、浪川が不自然に視線をさ迷わせた。
「三木はダメ。一応、トレーニングはするから、もし怪我とかしたら応急処置頼まなきゃならないし。えーと、A組の山内が立候補してるけど、どう?」
山内?誰だっけ。
「ほら、サッカー部の鮎川といつも一緒にいる……」
「あー、思い出した。オッケー」
その時、隣からガタン!と椅子の鳴る音がした。
……瑛太だ。でも無視。
私は小さく息をつくと瑛太とは反対の、南の窓を眺めた。
****
放課後。
ガヤガヤと騒がしい教室の中で、私は丁度真ん中くらいの位置にある菜穂の席へと近づいた。
「じゃね、菜穂。またラインするわ」
「ん。マネージャー頑張ってね……っと……来てるよ。山内……アーンド鮎川」
「え」
見ると、後ろの出入り口に山内君と鮎川君がうちのクラスを覗き込んでいた。
「川瀬!」
山内君よりも先に、鮎川君が私を見つけてニッコリと笑った。
「鮎川君……」
菜穂に小さく手を振ると、私は二人に近より声をかけた。
「山内君早いね。ちょっと待ってくれる?今から片付けるから」
すると山内君が申し訳なさそうに私を見た後、鮎川君を小突いた。
「こっちこそごめん。鮎川がさあ、今から部活だからひとめ川瀬に会いたいって」
えっ……。
「お前、そんなのバラすなよ。てかさ、野球部のマネージャーやらされてるんだって?明日……俺たちの試合見に来るの無理かな」
残念そうに私を見る鮎川君が、凄く爽やかでキラキラしている。
ああ……やっぱり王子だ……。
すると私が答えるよりも早く、山内君が悪戯っぽく鮎川君を見た。
「明日は俺達も練習試合なの!諦めろよ」
ガックリ肩を落とす鮎川君が、なんか可愛い。
だから私は落ち込ませたくなくて慌てて言った。
「大丈夫だよ。用具運んでスポーツ飲料とおしぼりとかセッティングしたら、少し抜けられると思うから」
サッカー部のコートは校舎の南側で、野球部は校舎の北側のグラウンドだ。
早足で行けば多分、五分以内で行ける。
「マジ?!俺、すげー頑張」
その時、誰かが出入り口のドアに腕を置いた。
油断していた私は背後に迫ってきていた人物の存在にまるで気づかず、思いきり振り返った挙げ句、その顔を見て驚きのあまり仰け反った。
げっ、瑛太っ!
「お。浅田!後でな!」
「ああ」
ダメだ、よろけるっ!
その時、信じられない事が起きた。
出入り口の壁で頭を打ちそうになった私を、瑛太が庇ったのだ。左腕を私の頭に回して。
「わ」
ここまでなら、壁から頭を守ってもらってありがとう的な感じですむ。
でも何を血迷ったのか、事もあろうに瑛太が私の頭をそのまま引き寄せた。
当然のことながら、私の頭は瑛太の胸にトンと当たる。
それを至近距離から見た鮎川君が、驚きのあまり僅かに唇を開いた。
いや、驚いたのは鮎川君だけじゃなかった。
なんと瑛太が、私の髪に唇を押し付けたのだ。
熱い瑛太の息が、髪を通り越して地肌に届く。
「ドジだな、春は」
囁くような瑛太の声が、低くて甘い。
嘘……でしょ、信じられない。
たちまち全身に電流が流れるような感覚がして、身体がカアッと熱くなる。
なに?なんで?!
「おーっと……」
瑛太のこの行動を目の当たりにした山内君が、照れたように天井を仰いだ。
「やだなに、アイツってば」
私は焦りながら、取り繕うようにそう言って鮎川君の顔を見た。
……でも。
鮎川君が見ていたのは、去っていく瑛太の背中だった。
固く唇を引き結んだ鮎川君は、徐々に小さくなっていく瑛太を凝視している。
その時山内君が、空気を変えようとしたのか少し声のトーンを変えた。
「おい、そろそろ行けよ、鮎川」
「え?……ああ。行くよ。じゃあね、川瀬」
鮎川君は私に視線を移すと、優しく笑った。
「うん、頑張ってね」
私は鮎川君に手を振ると、席に戻って荷物をまとめた。
しかし、なんかしっくりこない。
ここのところの瑛太はなんだか理解できなくて、私はブンブンと頭を振ると彼を思考から追い出した。
****
買い出しは思ったよりも早く終わった。
山内君が私の予想に反して凄く力持ちだし、テキパキした行動派だったから。
「ねえ、なんで買い出し役なんかに立候補したの?明日は練習試合じゃん」
買い出しの帰り道、私が山内君を見上げてこう言うと、山内君は柔らかく笑った。
「明日、俺は出ないんだ。一年で試合に出るのは浅田だけ。うちはほら、野球部とサッカー部が有名だろ?だから部員数が多くて。三学期に入って脱落者がかなり出たけどね」
「そっか……」
「だから、浅田は凄いんだ。エースで四番の一年なんて、まずいないから」
瑛太の話題は、なんか身体がゾワゾワする。
気まずい、自分の中だけでだけど。
「鮎川もそんな感じなんだよ」
急に話題が瑛太からそれたことにホットしつつ、私は山内君を見た。
「鮎川もさ、ポジションはセンターフォワードで、エースストライカーなんだ」
「凄いんだね。私、鮎川君がサッカー部だってことしか知らなかったよ」
「だから悔しいんだと思うよ、アイツ」
「え?」
山内君が私を斜めから見下ろして、直ぐ視線をそらした。
「川瀬、鮎川に付き合ってほしいって言われて、その場で断っただろ?」
うわ、さすが親友……よくご存じで……。
「あ……うん……」
「アイツモテるから、断られるなんて思ってなかったみたい。で、スゲー悔しそうにしてた。でもそれで、ますます川瀬を好きになったんだって」
「は?そこは……理解できないけど……」
「まあ川瀬に好きな奴とかいないならさ、長い眼で見てやってよ」
「わ……わかった……」
山内君は空を仰いでグイッと伸びをすると、爽やかに笑った。
****
「ね、川瀬さん、お願いがあるんだけど……」
三木さんの控えめな呼び掛けに、私は振り向いた。
「なに?どうしたのー?」
「あのさ、今日はもう先に上がっていい?実は……チョコレート作りの材料を買いにいきたくて……。明日は練習試合でしょ?私夕方からは習い事で買いにいけないんだ。日曜日に一度本番に備えてチョコレート作り練習しときたくて……」
私は驚いて三木さんをマジマジと見つめた。
「えっ?!もしかしてバレンタインデーの?練習なんかすんの?!」
私の驚きに少し恥ずかしそうにして、三木さんは頷いた。
「えっ、あ、うん……。私、凄く不器用なんだ。だから、失敗しちゃう可能性高くて」
……そうなんだ……練習するんだ。
私とは違って、物凄く清楚でおとなしい三木さんが、バレンタインデーに手作りチョコレートを……。
う、羨ましい。三木さんがじゃなくて、もらう男が羨ましい。
こんな可愛い三木さんにチョコをもらえたら、男子はウハウハだよね。
「あとは、グラウンド整備だけだから気にしなくていいよ。チョコ頑張ってね!」
私がそう言うと、三木さんはニッコリと笑った。
「うん、ありがとう!」
……手作りチョコかあ……。
そういえば菜穂も手作りチョコをヨシくんに渡すって張り切ってたよな。
私は……チョコを手作りなんて、生まれて一度もやったことがない。
バレンタインデーにいつもチョコを渡すのはパパと瑛太だけだ。
しかもデパートとかのバレンタインデーコーナーにあるやつ。
いつも瑛太に渡すのは私が最後らしく、夜瑛太の部屋に行くと、女子からもらったチョコレートが沢山置いてあったっけ。
……今年は?今年は……どうしたらいいんだろう。
瑛太とうまくいってない今年は……。
幼馴染みなのに、いつも一番近くにいたはずなのに、今は……なんか遠い。
無意識に辺りを見回すと、私は瑛太の姿を探した。
ランニングや柔軟体操を済ませた部員達がベンチに集まってきていて、誰よりもスラリとした瑛太はすぐに分かった。
油断をしていると顔を上げた瑛太と眼が合いそうになって、私は咄嗟に背を向けた。
……危ない。
そうだ、用具室にグラウンド整備の道具を取りに行かなきゃ。
私はその場を離れると、校舎の端にある用具室に足を向けた。
****
用具室は、南側と北側のグランドの丁度真ん中にある。
校舎の南側にあるテニスコートやサッカーコートからも便利がいいように。
……あれ、ドアが閉まってる。いつも放課後は開け放ってあるのに。
そう思いながら両開きの用具室のドアを開けた私は、瞬間的にビクリと凍りついた。
いつもは土と石灰の、用具室独特の匂いしかしないのに、バニラの香りがしたから。
甘い甘い、バニラの香り。
その時、私の眼の端で何かが動いた。
「こんにちは」
涼やかな声と共に、ひとりの女の子が部屋の隅から立ち上がり、私の正面に立った。
私と違い、肩までの短くて黒い髪。黒目がちの綺麗な瞳。
すごく爽やかで素敵な人だった。
それからすぐに分かった。この人だって。
瑛太のバニラの香りの原因は、この人だって。
彼女は私をグッと見据えた。
「瑛太君の幼馴染みの、川瀬春さん……よね。私は二年B組の谷口架純です」
ドクドクと、心臓が嫌な音を立て始める。
「……はい……」
異様に鼓動が早くなる。
谷口……架純さんは、私を見て少し笑った。
「川瀬さんの事は知ってるの。あなたは学校の女子の中でも凄く目立ってるから。それに、瑛太君の幼馴染みだそうだし」
「……」
なんと答えたらいいかわからず、私はただ谷口さんの顔を見つめた。
「はっきり言うけど、私、瑛太君が好きなの。彼を見てキャーキャー言ってるだけで何もしない女の子達と一緒にしないでね。私は本気で彼を好きなの」
本気……。
谷口さんは続けた。
「単刀直入に言うけど、瑛太君に気がないなら、幼馴染みってだけで馴れ馴れしくするのはそろそろ止めてくれない?
私ね、瑛太君を自分のものにしたいって本気で思ってる。いつも時間を作って合ってるの。だからこの間は抱き締めたし、キスだって」
「先輩」
後ろから、瑛太の声がした。
振り向くと、開け放っていた扉の傍に瑛太が立っていた。
私を見た瑛太の眼が驚愕に満ちていて、これが谷口さんの口からでまかせじゃないと感じた。
なによ……これ。
心臓が押し潰されたみたいに苦しい。
「春、」
瑛太が焦ったように私に一歩近づいた。
その表情に何故かたまらなくイラついて、私は谷口さんに向き直った。
「どうぞお構い無く。確かに私は瑛太と幼馴染みだけど、恋人との仲を邪魔する気なんか更々ない」
言い終わると身を翻し、私は瑛太の脇をすり抜けた。
バニラの香りは、あの人だったんだ。
心臓が破裂しそうな程脈打ち、それが耳元まで響いた。
瑛太があの人と。
あまりの衝撃で、なんだか夢みたいだ。
でも、だけど。私には関係ない。
瑛太が誰と何をしようが私には関係ないもの。
私は早足で用具室から離れると、どうしていいかわからず、部室へと走った。
****
翌日、土曜日。
菜穂は今日、午前中にママが退院するらしく、練習試合は見に来れないらしい。
私は昨日の衝撃で激しい寝不足だけど、仕方なく朝早くに学校へと向かった。
家庭科室を借りてスポーツ飲料を作り、お茶とおしぼりを用意するとグラウンドに運ぶ。
三度に分けて運んでいる間に到着した三木さんが、私の姿を見て駆け寄ってきた。
「川瀬さん、ごめんね!ありがとう。やってもらったお礼に、試合のスコアは私がつけるからね!サッカー部見に行ってきていいよ」
「え、なんでそれを……」
三木さんがニコニコと笑った。
「食堂で話してたの聞こえてたから」
「そ、そうなんだ。じゃあちょっとだけ抜けさせてもらうね。すぐ帰ってくるから」
「分かった」
「皆、出席とったらウォーミングアップ始めるぞ。各自しっかりやれ」
顧問の福井先生が部員に声をかける。
私はグラウンドのベンチに荷物を運び、部員の出席を取りながら時計を見た。
少し辺りを見回すと、グラウンドへと降りる階段にはギャラリーが集まり、思い思いの場所に腰掛け始めていた。
……いるんだろうか。この中に谷口さんも。
そう思った途端、谷口さんのはっきりとした口調が脳裏に蘇った。
『幼馴染みってだけで馴れ馴れしくするのはそろそろ止めてくれない? 』
『この間は抱き締めたし、キスだって』
……知るかっ!瑛太のハゲッ!どうでもいいわ、勝手にしろっ。
無性に胸がムカムカして顔をあげると、真正面に福井先生が立っていた。
「先生!」
「ん?」
「私マネージャーの仕事を押しつけられる前にサッカー部の練習試合見に行く約束してたんで、ちょっと抜けるけど」
「あー?お前、押しつけられるとは何事だよっ。お前が塀をよじ登ったのが悪いんだろーが!
……まあいいか。ちょっとだけだぞ。すぐ戻れよ」
「はーい!」
これでよし。
それから出席簿をベンチの横に置いていた手提げカバンにしまおうとすると、そこに誰かが立ちはだかった。
見上げると、瑛太だった。
またしても不満げに瞳を光らせて、瑛太は私を見下ろしている。
「邪魔」
「行くの」
「瑛太に関係ないでしょ」
ツンと横を向くと、私は手提げを諦めて踵を返した。
とにかくもう私は、瑛太の事で谷口さんに変な敵対心を持たれたくなかった。
*****
一時間後。
対戦相手の敬清高校がグラウンドに到着し、ウォーミングアップを始めた。
今頃は、サッカー部の相手チーム……北高も到着してるんだうな。
さっき山内君が声をかけてきてサッカー部は九時半キックオフだって言ってたから、そろそろ始まる時間だ。
私は近くにいた三木さんに声をかけてから、南側のサッカーコートへと向かった。
向かった……のだけど、なにこの人だかり。
凄い数のギャラリーに圧倒されて、私はコートの手前で足を止めた。
野球部のギャラリーも凄いけど、サッカー部も凄い。
どうやら今日は近隣の中学からも生徒が見学に来ているらしく、とてもじゃないけど石段を降りてコートに近づく事ができない。
どこだろう、鮎川君は。
コート内ではうちの部員たちがシュート練習やドリブルをはじめ、ペアを組んでのボールの奪い合いなど、最後の練習をしていた。
そんな中、
「川瀬!」
辺りに凛とした声が響き、コートから鮎川君が私を見付けて手招きした。
あ……。
たちまち女子達が、一斉に私を振り返る。
近くの石段に腰かけていた二年の女子が少し場所を開けてくれて、私はそこから降りるとコート上の鮎川君に歩み寄った。
「見に来てくれたんだ!すげー嬉しいけど……野球部は大丈夫?」
「ん、福井先生に許可もらったから、少し見ていられるよ」
「そっか。良かった!」
「鮎川君、凄いんだって?!山内君が自分の事みたいに自慢してたよ」
私がそう言うと、鮎川君は一瞬眼を見開いてから照れたように首を振った。
「今日は……川瀬がじかに見て確認してよ。川瀬に、ちゃんと見てもらいたいんだ、俺がサッカーしてるとこ」
……本当に眩しい、鮎川君は。キラキラしてるなあ。
その時、間近で急に叫び声が聞こえた。
「おい、危ないぞっ!」
……え?
「きゃっ!」
「うわっ、悪いっ!」
ザザッと砂の音がした時にはもう遅かった。
どうなってこうなったのか、まるで分からない。
でも、気付いたら私は倒れていて、おまけに私に覆い被さるようにサッカー部員が倒れていた。
しかも別の誰かの足が、私の足に絡まっている。
……痛い、さすがに。
「ヤバい、君、血が出てる」
私の足に絡まるように倒れていた部員が息を飲んだ。
「え?」
近くにいた部員が次々に駆け寄ってきて、私達を取り囲む。
嘘……血が、血が流れてる。
「スパイクで足を……誰か、保健室に連れていけ!このままじゃダメだ」
顧問の先生が辺りを見回し、キャプテンと鮎川君が私の側にしゃがみこんだ。
「鮎川はダメだ。試合がもう始まる」
「先輩、でも……」
私は慌てて首を横に振った。
「あの、私大丈夫です。鮎川君、気にしないで」
「でも、川瀬」
「もうすぐ試合でしょ?大丈夫だから気にしないで」
少し笑って立ち上がろうとすると、私に突っ込んできた部員が申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごめん、ほんとに。凄く夢中になってて、君がいるのに全く気付かなくて……」
私はサッカー部のマネージャーに手渡されたティッシュペーパーを受け取りながら彼を見上げた。
「私がこんな近距離に来たのが悪いの。迷惑かけてごめんね」
「もう三木さんに連絡してあるからね。すぐに迎えが来るから、それまでに傷口の砂を洗っとこう!」
マネージャーが私に優しくそう言った時、誰かが驚いた口調で言った。
「嘘だろ、早!もう野球部が来たぜ」
……え?
「あれは……浅田じゃないか?野球部一年の浅田瑛太」
そう言った部員の視線を追うと、階段の向こうに本当に瑛太の姿が見えた。
瑛太はコートの端にしゃがみこむ私を眼で捉え、階段を一気に駆け降り、みるみる私に近寄ると唇を引き結んだ。
……どうしよう、めちゃくちゃ怒ってるっぽい……。
「さあ、試合の準備だ。あとは浅田に任せろ」
「先生、うちのマネージャーがご迷惑かけてすみませんでした」
瑛太が言いながら頭を下げると、サッカー部の顧問は軽く手をあげてベンチへと踵を返した。
顧問の一声で部員達が散り、後には瑛太と私、鮎川君だけが残ると、私は恐る恐る瑛太に声を掛けた。
「あの、瑛太……」
「春。手当てした後、話あるから」
……絶対怒られる。
だって瑛太は、こういうの嫌うもの。
私は自分が悪いのを分かっていたから、コクンと頷いた。
「……うん」
今度こそ立ち上がろうとした私に、鮎川君が手を伸ばす。
その時、瑛太の冷たくて低い声が響いた。
「触るな」
鮎川君がピタリと伸ばした手を止めたけど、瑛太は彼を一瞥しただけですぐ私の脇にしゃがんだ。
当たり前のように、瑛太が私の身体に両腕を回す。
「春。俺の首に腕回して」
たちまち瑛太の身体に私が密接する。
温かくてガッシリとした、瑛太の身体。
ふと周りを見ると物凄く見られてる。特に女子達に。
「……あ、の……」
「いいから早く」
「うん……」
凄く不思議だった。
恥ずかしくて決まり悪いのに……瑛太で安心する。
来てくれたのが瑛太で、凄く安心する。
皆が注目する中、瑛太は私を抱き上げ、黙って本校舎を目指した。
****
手当てを終えて野球部のグラウンドに帰ると、もう試合は始まっていた。
「川瀬さん、大丈夫?!」
三木さんがスコアをつける手を止めて私を見上げた。
「うん、もう平気。保険医の先生曰くスパイクで蹴られたから少し腫れるって言ってたけど、傷もそんなに深くないって」
私と三木さんの話を聞きつけた浪川が、ホッとしたように、バックネット裏に引っ込んだ瑛太に視線を流した。
「三木が先生に話してる途中で浅田が駆け出していっちゃってさあ、アイツ今日は四番打つはずだったのに、球拾いだよ」
「マジ?!」
……なんか……悪いことしちゃった。
私がショボンとしていると、福井先生が私の頭をガシッと掴んだ。
「俺の指示を聞かずにダッシュして消えたアイツが悪い!それからお前も悪い!塀なんぞよじ登ったのが運のツキなんだよっ」
「もー、先生、またそこに話が戻っちゃうわけ!?」
「とにかく、大したことないんだから働け!」
「わかりましたー」
私は三木さんにお礼をいうと、部員に配るスポーツ飲料の用意を始めた。
***
約二時間後。
結局瑛太の出番は全く無かったけど、二年生の活躍が凄くて、良い勝ち方をした練習試合だった。
全ての後片付けを終えて解散する頃には昼を過ぎていて、部員たちはファストフードへ行く話で盛り上がっていた。
「春。帰ろ」
瑛太が後ろから私に声をかけると、肩にかけていたバッグに手を伸ばした。
「あれ、皆とハンバーガー食べに行かないの?」
「行かないよ。帰るぞ」
「……うん」
空は青くて、今日はいつもより暖かい。
私の荷物を自分の肩にかけて歩く瑛太は、均整がとれていてこの空に負けないほど綺麗だ。
背、ほんとに高くなったなあ、瑛太は。
私なんて160センチ以下なのに。
結局瑛太は心配しただけで、私を責めなかった。
不用意に練習してる場所に近付いた事を怒られると思ったのに。
その時、急に菜穂の言葉が脳裏に蘇った。
『春がひとりでキレてるんじゃん』
『浅田が気の毒』
……なんか……あの時はそんな事ないって思ってたけど、今は菜穂のこの言葉が間違いじゃない気がしてきた。
あの雑誌も、バニラの香りの谷口さんも、いつまでも瑛太を『昔』という名の思い出の中に閉じ込めていた事も。
なんか私ばっか空回りしていたみたいな気がする。
恥ずかしくて情けなくて、少し胸が苦しい。
私は何も言えなくなって、ただ黙って歩いた。
瑛太もなにも言わなかった。




