その意見、誰のもの?
言葉に膝を打つ、という瞬間がある。
本を読んでいて、とある一文に出会う。「そうだよねえ」と内心でうなずく。あるいは、タイムラインを流し見している最中、誰かの短いフレーズが不意に胸に刺さることもある。思わずリポストし、ブックマークし、場合によっては友人に向かってこう言うのだ。
「これ、まさに自分の考えなんだよね」
そのとき、私たちは何をしているのだろうか。同じ考えを「発見」したのか、それとも、自身に都合よく「借用」しただけなのか。そして、その言葉は果たして、本当に自分の意見になったのだろうか。
もっとも、他者の言葉に共感すること自体は、何の罪でもない。人は言葉を通して世界を理解し、思考を組み立てていく。そもそも、完全に独力で生まれた意見など、どれほど存在するのか怪しい。私たちは幼い頃から、教師の言葉、本の文章、テレビの語り口、そして今ではSNSから、途切れることなく言葉を浴びせられてきた。
問題があるとすれば、「共感」と「委託」の境目が、あまりにも見えにくくなっている点だろう。
誰かの鋭い言葉を、自分の意見として提示する。そのとき、その言葉はどれほど自分の中で噛み砕かれているだろうか。別の文脈に置かれても、同じように守れるだろうか。反対意見を突きつけられた際、「それは〇〇が言っていたことだから」と、心のどこかで責任を外へ逃がしてはいないだろうか。
ツイート(ポスト)という形式は、この曖昧さをとりわけ加速させる。限られた文字数の中で、意見は必然的に鋭く、断定的になる。その切れ味は魅力的だが、同時に、その言葉が生まれるまでの文脈──迷いや逡巡、揺れは削ぎ落とされる。結果として私たちは、「完成された意見」を、ほとんど労力をかけずに拾い上げることができる。
拾うだけで、考えた気分になれるのだ。
少し意地の悪い言い方をするなら、現代人は「意見を持つためのコスト」を極限まで引き下げることに成功した。長々しい本で思考を練ることも、教訓が染み入るような修羅場を経ることも不要だ。誰かが整えてくれた意見を、きれいな形で持ち帰ればいい。それは合理的で、効率的で、忙しい生活によく馴染む。
ただ、その合理性の裏側で、「自分の意見を持つ」という行為そのものを、どこかに外注してしまってはいないだろうか。
この問いは、AIの登場によって、さらにややこしいものになった。例えば、ChatGPTにこんな質問をしてみよう。
「Q. SNS時代における『自分の意見』とは何か。簡潔に答えよ。」
すると、こう返ってきた。
「A. SNS時代における『自分の意見』とは、他人の意見や流行をそのまま拡散することではなく、情報の影響を自覚したうえで、自分の価値観と責任で選び取った立場である。」
そうそう、まさに私が言いたかったことである。ぜひ、以下の文章に流用しようじゃないか!
他の問いを投げかけても、おおむね納得できる答えが返されるはずだ。なぜなら、AIは過去の膨大な言葉を学習し、その中から「もっともそれらしく、もっとも納得感のある表現」を差し出してくるのだから。
ここにある誘惑は、なかなか強烈だ。
自分では上手く言葉にできなかった思いが、見事な文章として提示される。それを少し整えれば、「自分の意見」として世に出せる。
何が問題なのかと問われれば、明確な害は見えにくい。盗作でもなければ、虚偽でもない。実際、その内容に心から同意しているのだから、なおさらだ。
それでも、どこかに小さな引っかかりが残る。
この文章は、「自分の中から」出てきたのだろうか。それとも、自分の外で生成されたものに「うなずいただけ」なのだろうか。
AIを使うこと自体が危険なのではない。危ういのは、AIが差し出した言葉と、自分の思考との境界が、いつの間にか溶けてしまうことだ。考える前に整った文章が提示され、それに同意するだけで「意見を持った気」になれる。その快適さは、ツイートを拾い上げる行為とよく似ている。
極端に言えば、私たちは「考える主体」から「うなずく主体」へと、静かに役割を移しつつあるのかもしれない。
もっとも、ここまで書いておいて、「他人の言葉を使うな」「AIを使うな」と言いたいわけではない。それは現実的でもなければ、健全でもない。言葉は本来、共有され、影響し合うものだ。完全なオリジナリティなど、幻想に近い。
ただ、一つだけ意識すべきだと思うことがある。
その言葉を、どれだけ引き受ける覚悟があるか、という点だ。
借りた言葉であっても、それを自分の文脈で使い、反論されたら自分の言葉で応答し、必要なら修正する。その過程を経て、初めて意見は「自分のもの」になる。逆に言えば、どれほど整った文章でも、反論が来た途端に手放してしまうなら、それは最初から自分の意見ではなかったのだろう。
AIが生成した文章も同じである。それを出発点に思考を深めることはできる。しかし、ゴールにしてしまった瞬間、思考は止まる。便利さは、思考を助ける道具にも、代替する装置にもなり得る。その分かれ目は、案外、ささやかな意識の差にあるのではないか。
自分は今、考えているのか。
それとも、ただうなずいているだけなのか。
無意識への答えは曖昧にするほかない。ただ、その問いを手放さないこと自体が、「自分の意見を持とうとする姿勢」なのだと思う。
少なくとも、借り物の言葉で満たされた頭の片隅に、小さな疑問符を一つ置いておく程度の余裕は持っていたい。それが、思考を完全に外注しないための、ささやかな抵抗ではないか。
……まあ、以上の文章にうなずくだけならば容易い。
同意できない引っかかりはなかったか?
自分の文脈への適用法は何か?
私たちが探すべきものは、きっとそれだ。




