第三章: 明応の政変【道灌と景春】
一四七三年六月、長尾景信が亡くなり、実弟で惣社長尾家当主である長尾忠景が、山内上杉の家宰となった。しかし、景信の嫡男である長尾景春が不満を抱き、独自の行動をとり始めた。十一月、扇谷上杉家でも、上杉政真(上杉持朝の孫、一四六七年から当主)が亡くなり、叔父にあたる上杉定正が家督を継いだ(二十八歳)。
十一月二十四日、今川義忠が足利義政から遠江国懸川庄と河匂庄の代官職を与えられた。東幕府の三河守護細川成之を支援するため、遠江に進軍した。
●遠江東軍:今川義忠(駿河守護)・細川成之(三河守護)
●遠江西軍:狩野宮内少輔(遠江守護代)・巨海新左衛門尉(吉良家被官・浜松庄領主)
一四七四年六月十七日、江戸城で歌合せが行われた。城主は、太田道灌四十三歳である。伊勢から関東に来ていた心敬(京都東山の十住心院の住持、清厳正徹に和歌を学び、連歌でも名声)が判者をつとめ、堀越公方の重臣である木戸孝範らが参加した。
『海原や 水まくたつの 雲のなみ はやくもかへす 夕立の雨(海上夕立)』
歌合せには、太田一門をはじめ、増上寺長老も参加した。
江戸城は、東は海に面し、西に堀を巡らせる。道灌はその中に三つの建物を作った。東の泊船軒、西の含雪軒、南の静勝軒である。正宗龍統の『江戸城静勝軒に寄せて題する詩の序』によると。城のある場所は海と陸の交わる豊かなところで、船や車が集まっていた。城の東のほうには川があり、曲折して流れ、南の海に注いでいる。商売をする人達の大小の船が帆を並べ、漁師達のかざす篝火が見えたという。毎日市がなされ、安房の米、常陸の茶、信濃の銅といった各地の特産物が商いされた。
一四七五年、道灌は長尾景春の不可解な動きを察知した。五十子陣で揉め事が起きたのに、駆け付けることもできない。「太田道灌状」によると、このままでは大事になると考えた道灌は、長尾忠景と父太田道真に意見を述べた。
『景春はもとより無器用。傍輩・被官に狼藉を働くものが増えている。このままでは困ったことが起きるから、天子の御旗を差しかけて退治すべきです』
しかし長尾忠景は気に入らないようなそぶりを示し、父道真は「そんなことを拙速にすべきではない」と腹を立てた。道灌の懸念は受け入れられなかったのである。二月、遠江で斯波家の牢人が蜂起した。西軍であった斯波義廉の重臣甲斐敏光が東軍に転じて守護代に任じられ、現地に派遣されたことによる。今川義忠の遠江領国化は東幕府から疎まれ、東軍同士の衝突となったのである。六月、今川堀越貞延が戦死し、義忠は苦戦を強いられた。
一四七六年年明け、長尾景春は軍勢を率いて五十子陣を離れ、南の鉢形城に籠った。道灌は長尾忠景を引退させ、景春と和睦するのが得策だと父道真に訴えたが、とりあってもらえなかった。これが「長尾景春の乱」である。二月、駿河守護今川義忠が遠江で横地氏の本拠を攻略して帰国の途についたところ、塩貝坂で現地の一揆の攻撃を受け、戦死した。
★この段以降の、太田道灌と当時の関東に関する記述には、山田邦明「敗者の日本史8 享徳の乱と太田道灌」を大いに参考にしました。興味の湧かれた方は、是非購入して読んでください。




