【相良の歩5 -応仁の乱への対応-】
一四六七年、相良長続は隠居し、三男の為続に相良家の家督を譲った。菊池家と対立した長続であったが、長くこれと対立することを好まず、両者はやがて和睦したのである。為続は元服の時に菊池為続から、「為」の一字の偏諱を受けている。したがって、為続を新たな当主とした相良家は、菊池氏の後ろ盾を得る事に成功したのである。
まもなく、応仁の乱が起きた。父長続は東軍の細川勝元に属し、上京して戦闘に参加したが、一四六八年、病で帰国し二月十五日、死去した。享年五十八歳。
将軍足利義政は、為続に東軍への参陣と、西軍の属した大内政弘とその与党への攻撃を命じた。当時、九州では、豊後の大友家が東軍に付いた事から、これと対立する菊池家は西軍に付いていた。京では一進一退の攻防が続き、東軍西軍の決着は付かない。これに参加するのは愚である。菊池家は自身の後ろ盾である。これと戦うのも愚である。
①決着のつかない中央の争いには、参加しない
②東軍西軍に分かれても、後ろ盾の菊池家とは戦わない
一四六九年四月、為続は「菊池方、島津方(東軍西軍どちらにも付かず傍観)と談合し、いささかも上意には疎略に対応しません」とだけ義政に返事した。
③現地の論路を優先する。しかし、「疎略には対応しません」と将軍には言う
そして、最終的には、一四七〇年五月には、菊池家を通じて大内家と連絡を取り合ったのか、西軍に転じた。同年、大内氏の執り成しで、為続は従五位下左衛門尉に叙任されている。相良家は、以来、西国の雄・大内家と懇意になった。
④大内家を通じて中央の権威のお墨付きを得た
その頃、南の薩摩では、島津忠昌以来の奥州家と島津国久(薩州家)・島津季久(豊州家)との間で抗争が再燃していた。南の島津は統一されれば、潜在的な脅威である。
⑤分裂した南の島津家に対しては、一方と同盟を結ぶことで臨む
一四七五年、為続は島津国久と同盟を結んだ。十月、為続は鹿児島に赴いて、犬追物や笠懸などの歓待を受けた。
一四七六年二月、牛山城の島津左衛門尉が、隣接する菱刈(伊佐市)を攻撃した。菱刈道秀は為続の舅であったことから、為続は菱刈氏の救援に向かった。為続は、島津国久の加担を得て、北原氏からも来援を得て、島津左衛門尉と野戦した(牛山河原合戦)。この野戦では、勝敗は付かなかったが、九月二日、牛山城を落とした。島津国久は相良家に再び牛屎院を預けることを決め、為続は牛山城に永富頼福を入れた。
一四八二年九月、古麓城の名和顕忠が、父長続の代に譲っていた高田が惜しくなり、奪回を試みて侵攻してきた。為続は撃退し、一四八三年十二月、島津国久・祁答院重度・北原昌宅・菱刈道秀と天草衆(名和氏とは不知火海の制海権を巡って対立)の援軍を得て、古麓城を落とした。そのうえで、高田に一旦は退去し、守護菊池重朝に裁定を委ねた。




