【諸方内憂】
一四四七年三月十三日、曇り。大外記・業忠が元内大臣万里小路時房を訪ねた。
『鎌倉上杉房州入道辞其職隠遁之吉』(建内記)
“鎌倉の上杉憲房入道が関東管領職を辞めたがっているようです”
またか、と時房は思った。
『京都管領故京兆、畠山、当時京兆、代々堅雖問答、猶不承引』
“京都の管領、故細川持之・畠山持国・細川勝元が代々止めているが、一向受入れない”
『彼不管領者、又与京都不和事亦出来之基也』
“憲房が関東管領でなくなれば、また(関東が)京と不和になる”
『彼心中者、於我身者一向可奉公于京都之所存也』
“憲房は、心中、京で(やがて将軍となる足利義成に)奉公したいのだ”
『仍以子息已令在京、於京都可令元服』
“だから、子息(のちの上杉房顕)を在京させ、京都で元服させる運びなのだ”
気持ちは分かる。鎌倉公方と将軍の間で、板挟みになるのがもう嫌なのだ。
『所詮以鎌倉殿子息被立申可輔佐之由、不存之』
“どうやら、鎌倉殿(故足利持氏)の遺児千寿王丸を補佐する気持ちはないようだ”
とはいえ、二階堂らでは関東管領は務まらぬ。憲房の願いは聞いてやれなかった。
『慶雲院殿御少年之時、当時畠山三位入道辞管領職之時、猶可在其職之由、以中山自公家被仰畠山』
“先代義勝の時も、中山を通じ、公家から管領畠山持国の辞意を止めたことはあったが”
時房は、どうしたものかと頭を悩ましながら、憲房を止める文案を中山に送った。昨今、武家は朝廷の権威に頼りきりである。諸大名は、将軍とは違って宮中の作法を知らず、昇殿もろくにできない。したがって諸権門(寺社などの荘園領主)との交渉事は、朝廷側からの援護なくしては円滑に行えなかった。こうした背景から、将軍なき幕府は、事あるごとに朝廷を頼った。この時期、朝廷が、幕府の瓦解を止めていた。
五月二十八日晴れ。吉良義尚が邸に斯波千代徳(遠江守護・十二歳)の家臣らを招いた。
『執事甲斐美濃入道常治進退作法狼藉尾籠之間、傍輩亦向背数十人及連署誓約』
“(斯波家では)執事・甲斐常治の振舞・狼藉に、家中数十人が連名誓約し対立していた”
四月、甲斐の私宅は、謎の失火で炎上している。襲撃を恐れた甲斐は、具足姿で邸を出た。
『今寓織田主計入道宅』
“今は織田浄祐(与三、尾張守護代織田家とは別家の一族)の邸に身を寄せている”
これを危惧した義尚は、同じ足利一門重鎮として、千代徳を娘婿にすることを決め、両派を邸に招いた。その席で両派の和解がなったのである。かつて、斯波高経・義将を出した名門斯波家は、今や家中の纏まりすら欠ける、分裂状態に陥っていた。