【文安の日常】
一四四四年五月。京の大炊御門烏丸周辺を、女房を乗せた輿が通り過ぎた。
『小児ホ、あれハ誰の御輿、大領殿御輿とはや□□ける』(建内記)
“小児が、「あれは誰のお輿、大大名のお輿か」とはやした”
供の男が、童の頭を撫でて通り過ぎた。
だが、そのあとを、酒の匂いのする男が続いた。男も供であったが、泥酔していた。
『件童子を様なく三刀さして過けり、誰ニても出ハ物ならハりすへしとののしりけれ』
“童を三度刺して通り過ぎ、「誰なりとも、出るなら来い」と怒鳴り散らした”
町人らはおびえ眺める他なく、「腰は山名の女中だ」とも「垣屋の妻だ」とも陰口した。童は八歳。父なき孤児で、「あやめ刀(端午の節句の刀)でも持っていたら、殺したのに」と嘆きながら、夜に事切れた。酔漢は「東西不便の童を無辜に殺すとは不便なり」と主に放逐された。しばらくのち、山名の声掛けで、土御門河原で来迎堂勧進の猿楽が行われた。
『畠山・細川亦不打桟敷云々』
“管領畠山持国も細川も、桟敷を設けなかった”
だが、桟敷が多数設けられ、諸門跡が善美を尽くした猿楽を見物する中、畠山・細川両家は桟敷を設けず。一部の者は、持豊家人(小者)の贅を凝らした衣装に眉を顰めた。
二十六日、細川屋敷。新惣領九郎(勝元十四歳、義教の子である亡き義「勝」から偏諱、摂津・丹波・讃岐・土佐守護)が、家人香西の子と前田の子(十五歳)の囲碁を見物した。
『香西子碁手九郎助言、乃前田子出怨□□追立』
“九郎が香西に碁の手を助言したところ、前田が怨み言を漏らし、屋敷を追い出された”
その少し後、前田は、細川邸に立ち帰り、抜刀して居間に乱入した。
『九郎学兵法。背其刀及両度、□起揚奪取彼刀』
“九郎は兵法を学んでいたので、刀を二度にわたって躱わし、前田の刀を奪い取った”
九郎は冷静だった。前田を押さえつけながらも、慌てて駆け付ける家人に子細を告げ。即座に前田を斬り捨てるべきところを、親類に預け置けと命じた。
ここで切れば、前田一族の名に傷が付く。前田は、四国の父に代わる、親類の沙汰で切腹した。細川家中と周囲は、九郎の振舞いを是とした。だが、もとより家人の碁に口を容れたのは九郎である。少年当主の沙汰は、筋が通っているようでいて、歪みがあった。
一四四七年一月十日、室町殿に公家衆が新年参賀を行った。摂関・清華家の面々が参集し、高倉永継(申次・佐兵衛佐)が幼主足利義成(義政十一歳)に対面する。摂関家の面々も御簾上段で対面し、帰る際、幼主はうずくまっていて意が掴めなかったのだろうか、
『主人少年不及御縁送』
“主人の少年(義政のこと)は、縁送を行わなかった”
万里小路時房は、幼主が礼を間違えた事に気付いたが、「儀式」は止められなかった。




