【関東の嵐2 ―雪打ちの怪―】
一四六二年十二月二日、将軍足利義政は、鹿苑寺で恒例の若君誕生の祈祷を終えた。
『牛黄被求于高麗國。天龍侍衣來時命之』(蔭凉軒日録)
“高麗(李氏朝鮮)から「牛黄」を取り寄せてくれ。天龍寺の者が来た時、命じよ”
「牛黄」は、牛の胆石を用いた高級薬である。解熱・強心・利肝などの効果があり。現代でも、その希少性から、金と同じ価値を持つ。他に、「健忘」(ぼけ防止)の効果もあると言われる(日華子諸家本草)。母日野重子に贈るつもりだったのだろうか。
どうも、この時期に、重子は老衰が進んでいたようだ。三日、重子から書状が来ている。
『自大上樣以慈育上坐壓被入院』
“大上様(日野重子)より、慈育上坐を導師に、寺に入るとの件であるが、”
導師は鷲尊蔵主が良いと寺社が言っていると寺奉行・飯尾美濃入道から取り次ぎがあり。伊勢貞親も、大上様にはそう伝えよ、と賛同した。
五鼓刻、鹿苑寺の奥の柴小屋で火事があった。
『山名殿就管領細川殿被申御成』
“公方様は山名殿・管領細川殿のところに御成りであった”
そのため、その日、火事の一件は報告されず。翌日、駆け付けた大館兵庫に伝えられた。
十二月二十九日、下総で結城成朝が急死した。二十四歳。「雪打ち」にみせかけた暗殺であった。『結城系図』によれば、氏朝恩顧の家臣らが相談し、遊興のついでに殺害した。『結城家之記』によれば、大雪の日、多賀谷祥永が当主成朝を蔑み、ついに「雪打」に擬して殺した。元来、多賀谷祥永・祥賀兄弟は、関東管領上杉憲忠を討ち取った、古河公方足利成氏を支える中心的存在であったが。義政は、若年当主の成朝に対して直接御教書を送り、その切り崩しを画策していたのである。義政の東利根川地域の古河公方派は存外団結していた。
すぐさま、結城一門の山川景貞が家中を纏め、子息の基景を結城家当主とした。のち、基景も若年で亡くなり、成朝の兄長朝の子・氏広が結城家の当主となった。
同じ頃、南関東では上杉一族長老の扇谷上杉持朝が所領に引き籠ってしまった。伊豆の堀越公方・足利政知(義政の庶兄)と、相模・武蔵方面の支配で対立したためという。義政は、扇谷上杉持朝と庶兄政知双方に御教書を送り、和解をはかったが、対立は止まなかった。結局、扇谷上杉配下の三浦時高(相模東部・三浦半島を支配、姉妹が相模西部有力者・大森氏頼に嫁ぐ)が出家隠遁し、高救(養子、扇谷上杉持朝の次男)に家督を譲り。千葉実胤(享徳の乱で、下総千葉家惣領から没落、関東探題・渋川義鏡に庇護されたが)が隠遁した。




