【脱線一・山名の富強】
一四三一年九月十一日、将軍足利義教は薩摩守護・島津忠国に奉書を送った。
『硫黄事、以上品拾五万斤被納之、不日可有運送之由』(御前落居奉書)
“硫黄の事だが、十五万斤を納品してくれ。日を置かず運送するように”
硫黄は薩摩国硫黄島で調達される。調達は薩摩守護島津家の任であり、指揮は京から派遣される禅僧がとった。室町幕府は、日本から明への硫黄交易の独占で莫大な富を得ていた。十五万斤に及ぶ硫黄。看過できないのは、その量が義満時代の六倍になること。硫黄が「火薬の原料」なことだった。硫黄は銅と並ぶ戦略物資で、貿易利権の要であった。
一四三二年六月、将軍義教のもとで、初めてとなる遣明船の派遣が決定された。
『寄合八幡丸と号する船なり船事、赤松奉行せしめ、面々これを催促す』(満済准后日記)
“「八幡丸」と名付けた貿易船は、赤松満祐が奉行し、面々がこれを進める”
七月十二日、薩摩の島津忠国と伊集院孫三郎(庶子)の間で合戦が起きたことが、京の満済に伝わった。硫黄調達は、難航しつつも、進められた。
一四三四年、唐船奉行が設置された。これは明との交易を終えた「八幡丸」に対応し、明使接待・貿易事務をする為である。唐船奉行は、一五四七年、最後の遣明船が派遣されるまで続いた。実に百十年超に亘り、貿易を統轄していく。
一四三五年六月九日、満済は再び硫黄について触れる。今回は硫黄「二十万斤」の輸出となったことを記す(満済准后日記)。だが、この時、硫黄は幕府の専売とならなかった。
●硫黄交易の分掌:幕府十五万斤・山名常煕五万斤
山名常煕は醍醐寺造営を名目に義教と島津に働き掛け、五万斤の拝領に成功していた。
何故、山名がそれを許される。これに驚いた満済は常煕を問い詰めた。だが、常煕は虚言ではないかと惚けるばかりであった。山名の海上流通への影響は、将軍足利義教すら看過できないものであった。同時に、赤松満祐らは、山名に後れをとったと言える。
一四四一年六月、義教が赤松教豊(満祐の子)邸で討たれた時、山名持豊(のちの宗全・常煕の子)は、侍所頭人を解任されるにもかわまず土倉(幕府と結ぶ金融業者)を襲撃し、赤松領国が切り取り次第とされるや、ようやく討伐に動いた。
●赤松領国:播磨・備前・美作(瀬戸内海に面する、海上交通の重要国)
閏九月、赤松領国守護職は山名一族に与えられた。だが、この時、わざわざ播磨国内三郡(明石・加東・三木)の分郡守護(一部地域だけを治める守護)の設置が決まった。播磨でも特に経済重要度の高い地域である。そして、分郡守護は同じく戦功があった赤松満政(赤松一族・義教の元側近)に与えられた。管領細川持之の山名への抵抗だった。だが、一四四四年一月、新管領・畠山持国は、三郡を持豊に与えた。十月赤松満政は播磨に没落。翌月以降、山名と毛利・益田ら山陽山陰勢の討伐を受け、一四四五年四月、京に首が届いた。
山名は山陰山陽の海を得た。幕府首脳は持豊を警戒し、二度と要職に就けなかった。