【富子と義政5―父との別れ―】
大館満信の私邸は、「花の御所」のすぐ西にあった。だが、それは昨日までの話である。
『賜之一色左京兆』(大館持房行状)
“(満信から取り上げた)邸は、一色左京亮に与えられた”
満信は、所領を削られ、永昌坊に逼塞した。だが、子の持房には、何も命じられなかった。
―さあ、どう動く。当家に降った過去も忘れた大館―
異例の歌合せには出ても、異例の贈答には応じぬ大館。将軍足利義教は、様子見に出た。
『以故、日々強入相府、府中人々、不敢与言、唯以目』
“ゆえに、持房は御所への出仕を続けた。御所の人々は、言葉なく、見守る他なかった”
これでは生き地獄である。義教は、しばらくその様を観察した後、得心したか、あらためて持房に出仕の停止を命じた。父満信がおらねば、こんなものか。と安堵したのである。
したがって、義教が将軍位にあった一四二八~一四四一年の十三年、大館持房は志を得なかった。だが、都の人々は、こうも噂した。
『善山苛法、凡忤旨得罪者、無貴賤、皆当斬』
“御所様(義教公)は苛烈で、罪を得た者は、貴賤なく皆斬られている”
大館父子が洛中に身を潜めるのを知りながら、手を下さず。取り上げた所領を、将軍直轄として、家臣に与えようとしないのは。
『必復用之』
“(心中ひそかに)大館をまた用いようと決めているからである”
何を企んでいたか知れぬ満信はともかく、子の持房の実直は、捨てるに惜しかった。
一四三一年、義教は内大臣・三条実雅の息女・尹子を正室に立てた。三条内府は権貴無双となった。京の東山の住心院僧正は、内府の叔父であった。
『持房老臣共計、以其二男年十三、令持状、棄之於院中』
“持房の老臣らは計を廻らし、持房の次男教氏十三歳に書状を持たせ、院中に捨て置いた”
僧上はこれを見て憐れんだという。書状に記された大館の窮状を、内府に取り次いだ。
他日、三条内府は尹子と語らい、義教に大館の困窮を訴えた。義教は答えた。
『持房無罪、是満信所使然也、向者不与満信相見、則持房如故』
“持房に罪はない。罪は満信にある。今後、満信に面会しないなら、持房を許そう”
持房はこれに応じた。即日、義教から持房に所領十余村が還され、銭三百貫(3,000~6000万円)が下された。更に、鷹司坊に土地が与えられ、邸を持つこととされた。義教なりの詫びか。あるいは、好き好んで誰かれなく斬っている訳ではない、と言いたかったのだろうか。問題なのは、幕府宿老衆・諸権門のいらざる馴れ合いであり、大館はその風に乗せられたに過ぎない、とその頃には義教も悟ったのである。だが、従騎に戻れとの命は下されなかった。そのため、一四四一年、義教が赤松満祐に討たれた時、持房は難を逃れた。




