【義政の変心】
一四五五年一月五日、鎌倉公方・足利成氏を支持する軍勢五百騎が、鎌倉を出立した。武田信長・一色宮内大輔。六日、軍勢は相模国・島河原で上杉方を撃破し、武蔵国府中に進撃した。目指すは、上杉本拠・上野国。成氏も府中高安寺に進出した。
二十一日、鎌倉公方軍は、上野から南下してきた上杉軍と分倍河原で衝突した。
●足利成氏軍:結城成朝・小山持政・武田信長・村上・里見・世良田
●上杉軍:犬懸上杉憲顕(先手、上杉禅秀の子)・扇谷上杉顕房(持朝の子)・羽継・大石
この合戦で、上杉憲顕が高幡寺で自害し、翌二十二日、上杉顕房も夜瀬で自害した。
だが、肝心の扇谷上杉持朝が健在だった。武蔵国府中から北、そこは上杉領国である。荒川と利根川。関東平野を貫く二つの川。荒川の北は、扇谷上杉の本拠河越。背後に山内上杉が治める上野。荒川は東に越える他ない。その先に立ちはたがるのは利根川。利根川より東は北関東、鎌倉時代に北条一族が掌握した南関東とは異なる地勢が拡がる。南北朝時代、常陸に拠った北畠親房は、それに付け入り東国を撹乱した。
『畠山弥三郎勢、伊予守勢、於河内國致合戰、弥三郎手者多討死、頸三十許』(康富記)
二十五日頃、畿内では河内で畠山弥三郎と義就が衝突している。西が乱れる今しかない。
ニ月、武蔵国村岡に北上した成氏軍は、北の上野・南の河越に挟まれた位置の不利を悟り、荒川渡航を決行した。三月三日、更に利根川を渡り、対岸の下総・古河に陣を布いた。東の鬼怒川が常陸からの反攻を防いでくれる。それは、緒戦で上杉一族を次々と自害に追い込んだ鎌倉公方軍の動きとしては、消極的に見えた。決断の成否は成氏の采配次第であった。
西の上野に手が出せぬ。古河に到着した成氏軍は、利根川を盾に“守備”に回ったかのような様相を呈し始めた。事実、三月初頭、古河の成氏本陣には上野の上州一揆勢が馳せ参じた。だが、上野で長尾景仲(関東管領山内上杉の家宰)が軍勢を集結させているという報が漏れるや、十四日、一揆勢は公方の陣所を離れ、上野に戻っていった。
『上州一揆大略落ち行き候、言語道断次第候』(足利成氏の岩松持国宛御内書)
“上州一揆は大半が陣を離れて行きおった。言語道断である”
●上杉方:長尾景仲(上野)、小栗城(常陸北部)、千葉胤直・円城寺尚任(下総千葉城)
成氏は西(上野)を後に回すことを決めた。岩松持国に持ち堪えさせる。自らは、古河に腰を据え、東方を優先したのである。二十日、千葉城を原胤房(千葉家重臣・反円城寺で公方軍に)が攻め、主君胤直を千葉城から追い落とした。胤直は、北東の多胡城・志摩城に後退していく。次いで、四月五日、小山・結城・小田・簗田・筑波が常陸国小栗に兵を進め、外城を陥落させた。そこに那須持資が着陣し、那須を大将に小栗城を包囲していく。
公方方優勢。だが、京では将軍足利義政と管領細川勝元が、鎌倉公方足利成氏討伐を命じていた。既に、三月二十八日当主なき山内上杉に上杉房顕(憲実次男)が送り出され、四月三日駿河守護・今川範忠が関東に発向している。鎌倉に危機が迫る。
●追記:
上杉方の小栗城には、足利義氏という、成氏と対立する人物がいました(小栗・宇都宮・日光に勢力)。
上杉方が義氏と合流して、東で強大化する前に、
成氏が先手を打ったというのが、事情のようです。




