【明へ行こう8―日明交渉―】
一四五三年十一月は無為に過ぎた。景泰帝は、度々日本使節団に衣を贈り、面会を繰り返した。十九日、明の皇太子・見済が薨去した。二十五日、張楷の子張伯厚が、科挙のため、北京に到着した。張伯厚は、日本使節団の宿舎を訪れ、詩を作っている。
十二月二十一日、日本と李氏朝鮮の使節団が茶飯を賜ることとなり、席が問題となった。
『主客司来たり、日本を左に、高麗を右にす』(笑雲入明記)
一般に、左が上席である。景泰帝は、遠方から来た日本使節団への優遇を続けていた。
であるので、同日礼部から景泰帝に行われた上奏は、財政が絡むからであったと信じたい。この日、日本からの交易品の受取額が決まろうとしていた。品は以下である。
●硫黄36万4400(既に1万は進物として贈り、2万3100は景泰帝に贈呈していた)・蘇木10万6千、銅15万2000(2500斤は、道々で陳大人らに贈呈か)、太刀9483(17本は道々で贈呈か)、長刀417、扇と蒔絵は昔の数十倍
『若如前例給直、除折絹布外、其銅践総二十一万七千七百三十二貫一百文』(英宗実録)
“「宣徳八年」のレートで。絹布の分を除き、21万7732貫100文(210~420億円)です”
21万貫。財政に穴が開く金額である。英宗の子・見深を廃太子してまで、立太子した息子の見済が亡くなった今、英宗派に巻き返しの口実は与えられなかった。礼部の上奏に曰く。
『雖曰厚往薄来、然民間供納有限、況今北虜及各処進貢者衆、正宜撙節財用』
“日本から来てくれるのは、稀とはいえ。税収に限りあり、今年は、オイラート・タタールや各国使節の到来が多く、ここは財政を節約していただきませんと”
確かに、ここで弱腰外交はできぬ。明は交換レートを引き下げた(宣徳十年レート基準)。
●提示額1:硫黄蘇木銅3万4790貫+刀やり等5万118貫=8万4908貫(84~169億円)、それと馬2頭・糸1疋・絹9疋
年明けて、一四五四年一月六日、明側の受取金額が日本使節団に提示された。
一月十三日、日本正使(使節団代表)の東洋允澎は、景泰帝に上奏を行なった。
『蒙賜本国附搭物件価値、比宣徳年間十分之一、乞照旧給賞』(英宗実録)
“貴国が提示した価格は、宣徳年間よりも低すぎます。以前の交換比でお願いします”
ここから、およそ一ヶ月間、日本と明の間では交換レートを巡る交渉が続いた。
二月四日、礼部が趙文端(日本側通訳)を呼び、日本側の意見を聞いた。
『給価もし宣徳八年の例に依らざれば、再び本国に帰らず』
“交換レートを宣徳八年の基準にしてくれなければ、日本に帰れませぬ”
六日、礼部は「宣徳十年の例」(当初の提示額)でいくと答えた。日本側が想定した金額の約39%である。少なすぎる。副使(副代表・財務担当)如三芳貞は、礼部に抗議した。
『十年例にて本国に還らば誅戮せられん。ただ憐察を願う』(笑雲入明記)
“宣徳十年の例で本国に還るならば、誅殺されます。ここは配慮いただきたい”
八日、礼部院の人員が集まり、交換レートが議論された。
ここから、日本側の記録には交渉の詳細が記されていない。そこで、明側を見ていく他ないので、見ていこう。『英宗実録』によると、景泰帝が日本側に好意を示したという。
『遠夷当優待之、加銅銭一万貫』(英宗実録)
“遠国から来てくれた以上優待しよう。銅践一万貫(10~20億円)を加える”
●提示額2:9万4908貫(94~189億円)、馬2頭・糸1疋・絹9疋
期待額の約43.5%である。明皇帝が、価格交渉に応じてくれるというのも珍しい。
このあと、允澎は更に交渉を求めた。これに対し、礼部が無礼だと色めき立ったという。
『命更加絹五百匹・布一千匹』
“景泰帝は絹五百と布千を加えるよう命じた”
●最終提示額:9万4908貫(94~189億円)、馬2頭・糸1疋・絹509疋・布1000疋
これでも、日本使節団の大苦戦であるが、明皇帝が二度の価格改善に応じてくれたのは、一定の成果だったといえるのではないだろうか。
二月乙已。礼部は再び景泰帝に上奏した。
『允澎等、已蒙重賞、展転不行、待以礼而不知恤』
“允澎らにはすでに高額を提示したのに、帰国しませぬ。礼を知りませぬ”
期待額の43.5%で『重賞』はないと思うが、明の財政は予断を許さない状況だったようだ。
『沿途則擾害軍民、殴打職官、在館則捶楚館夫』
“北京に来る道でも軍民を騒がせ、職官を殴り、ここの宿舎でも喧嘩を起こしました”
『不遵禁約』
“そもそも禁約を守っておりませぬ”
「禁約」とは『宣徳要約』(交易船は三隻)を指すのだろう。ここで指摘すべきは、使節団の騒ぎである。これは千人規模の使節団には起こりがちなことで。オイラートの使節団などは、喧嘩どころか密貿易を行い、果ては明国応対者の対応が悪いと抗議し、提示額に怒って明へ進攻している(それで、土木の変)。応対者の抗議をせず、あくまで交渉に徹した日本使節団は、“どちらかといえば紳士的”だった。それは景泰帝も理解するところである。
『朝廷雖責其越例、以遠人慕化亦寛容之』(籌海図編)
“明朝廷は宣徳要約への違反を責めたが、遠国日本から来てくれたので、寛容で応じた”
『催促行程、如仍違拒、宜正其罪』(英宗実録)
“帰国を促し。拒むようであれば、罪を正すことに致しましょう”
景泰帝は、明国皇帝としての役割は果たしつつも、日本使節団に対して好意的だった。
二月中旬、日本使節団は、北京の寺社を観光した。二十八日早朝、日本使節団は景泰帝に面会し、帰国の許可を得て、北京を発った。かくして、日明交渉は落着した。




