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君の幸せ

 フェルナンド・ユージェミアに妹が生まれたのは、彼が7歳の時だった。





 ベッドで横になる母の隣に、生まれたばかりの妹の姿を見た時、あまりの小ささに、触れると壊してしまいそうな気がして、弟が気安く近寄れないように、強く弟の手を握ったことを覚えている。


 なかなか妹に近づこうとしない兄弟に焦れた父に手を引かれ、やっとのことでベッドに寝かされたその姿を間近で覗き込むと、目もまだ見えていないはずの赤子が笑った気がした。

 思わず誘われるようにその丸くふっくらとした頬を指でつつくと、ふにゃりとした柔らかい感触が伝わってきた。


 その瞬間こみ上げてきたのは、言葉にできないほどの感動と、目の前の存在が愛しくてたまらないという初めての気持ち。


 妹を守れる男になれという父の言葉に、まだ幼い弟は隣で元気よく頷いていたが、フェルナンドは、父にそう言われずとも、小さくて、柔らかいこの存在を守るのは自分だと強く胸に刻んだ。


 レティシアと名付けられた妹は、触れると壊してしまいそうだと危惧したフェルナンドの想像通り、ひどくか弱かった。

 生まれてすぐに体調を崩し、何度も生死の境をさ迷い、そのたびにフェルナンドは体が引き裂かれるような恐怖を感じた。

 そして、ついには空気の良い遠方で母と共に療養することになり、離れ離れで暮らすことになった。

 弟はレティシアと離れたくないと泣いていたが、泣きたいのはフェルナンドも同じだった。それでもレティシアが少しでも元気になれるのであればと、何の力にもなれない自分の無力を呪いながら、その小さな存在を見送った。



 段々遠のく馬車を見つめながら、この時誓った。

 今にも消えてしまいそうなあの柔らかな命を守る力を身につけて、必ず幸せにしてみせると。



 それからはただひたすらに努力に努力を重ねた。

 伯爵家の長子として生まれたからには、相応の教育を受けてはいたが、与えられていたそれだけでは十分とは思えず、自ら志願して剣術の時間を増やし、家庭教師の数も増やした。

 ユージェミア伯爵家の長子は優秀だと人々の口に噂が上るようになった頃、片言ながらも言葉を口にするようになったレティシアが、屋敷へと戻ってきた。


 その日を今か今かと待ちかまえていたフェルナンドは、母に手を引かれたレティシアを見て、思わず駆け寄り抱き締めた。


 生まれてすぐ療養先へと向かったレティシアにとって、フェルナンドは知らない人間だと言えただろう。

 しかし、レティシアは怯えることもなく、泣くこともなく、そのまま抱きしめられてくれた。


 幼子特有のミルクのような甘い香りに、ふわふわとした柔らかい感触。

 目の前の存在が幸せだけで構成されているとしか思えなかった。

 弟が隣で羨ましがって騒いでいたが、気付かないふりをして、ただひたすらその存在を確かめた。




 レティシアと母が屋敷に戻ってきて、ユージェミア伯爵家は変わった。



 父と弟と3人の時には、ただの食事をする場と化していた食卓も、おいしそうにご飯を食べるレティシアの姿がそこにあるだけで、家族のみならず、使用人たちも皆、幸せな笑顔が絶えない。


 休日にまで仕事のために外出していた父が、出来うる限り家族との時間を持つようになった。


 そして、シュバルツ公爵子息のライアンがユージェミア伯爵家に出入りするようになったのも、その頃からだった。



 父とシュバルツ公爵は貴族学校時代の学友であったらしく、身分の差はあれど、仲が良い友人のようだった。

 そんなシュバルツ公爵の長子であるライアンは、弱冠18歳にして、既に政治に携わっているようで、父と仕事の話をするために、屋敷に訪れていたが、フェルナンドたちの相手も嫌がらずにしてくれた。


 整いすぎた顔立ちは、一見冷たく見えるが、ライアンの物腰柔らかな態度から、フェルナンドたちは大層彼になついた。

 たくましい体躯に、神童と謳われた頭脳、そして誰に対しても分け隔てなく接する様子に、こういう人になりたいと心の底から憧れた。

 こういう人になれば、きっとレティシアをどんなことからも守ることができると。

 何度かライアンが連れてきたネイトソン侯爵子息のユリシスも、ライアンの友人というだけあって、容姿も頭脳も優れた人物だったが、やはりライアンほど素晴らしい人をフェルナンドは知らなかった。



 レティシアもフェルナンドと同様に、ライアンに一種の憧れのようなものを抱いたようで、彼が屋敷にきたときは、まるでひな鳥のように、彼の後ろをずっとついてまわっていた。

 それを微笑ましく見つめる自分たち家族。

 とても幸せな光景だった。





 それがまやかしの幸せだと気付いたきっかけは、本当に偶然だった。





 フェルナンドは貴族学校を卒業後、ユージェミア伯爵家の跡取りとして、政治に携わる前に、行儀見習いとして騎士団に入団した。


 仕事の一環として街の巡回をしていた時に、長年ユージェミア伯爵家の執事を勤めているカインという男をあまり治安のよくない路地裏で見かけた。


 とてもじゃないが、ユージェミア伯爵家の執事ともあろう人間がこんな所に用事があるとは思えず、訝しみながら後をつけると、カインが向かった先にいたのが、何度かライアンに連れられて屋敷に来たこともある、ネイトソン侯爵子息であるユリシスだった。



 そしてその場で耳にした言葉たちの衝撃は今でも忘れない。





 あいつのお姫様は元気か?


 はい、レティシア様は先週と代わりなく健やかにお過ごしです。


 贈った髪飾りをつけてくれているのか気にしていたんだが。


 昨日のご友人とのお茶会の際に身につけていらっしゃいました。


 そうか。あいつが今度お姫様に会いに行くときは、二人きりがいいと言っていたんだが、どうにかなるか?


 かしこまりました、他の者にも伝え、伯爵家の皆様のご予定を上手く調整いたします。


 …………さすがだな、カイン。お前を送り込んだ俺を褒めてやりたいよ。あいつもさぞ満足だろう。






 路地裏で交わされる言葉の数々に、ただひたすら驚くばかりであった。

 レティシアは確かに昨日友人に招かれて、お茶会へ参加したようだった。


 ライアンから贈られたと喜んでいた、美しい髪飾りを身につけて。


 つまりカインはユリシスが我が家に送り込んだ人間で、ユリシスはどうやらライアンから依頼されて動いているようで、つまりはライアンの息のかかった人間が、我が家で働いているということだ。


 しかも会話から察するにカイン一人ではなく、他にも数名いるようだ。



 一体何が目的で?



 そんなこと今の話から分かりきっているではないか。




 すべてレティシア一人のために。




 カインがユージェミア伯爵家の執事になったのは、10年も前のことだった。

 そんな昔から、レティシアの様子を逐一カインたちに報告させていた、ライアン・シュバルツという男。


 彼の人のレティシアへの執着に背筋が凍った。



 パズルのピースがカチリとはまるように、今まで不思議に感じていたことに納得できた。


 レティシアの頭を撫でたとき。

 レティシアの手を握ったとき。

 レティシアの頬に挨拶のキスを送るとき。


 その場にライアンがいれば、必ずといっていいほど、強い視線を感じた。


 いまこの瞬間はじめて気づいたその視線の理由は、嫉妬だ。


 つまりは、身内であるフェルナンドさえも許容できないと言うことだろう。



 そしてフェルナンドは一つの答えにいきつく。




 このままレティシアをライアンに渡すわけにはいかない。




 こんなにもうす暗く、偏執的で、歪んでいるとしか思えない、一方的な執着をもたれてレティシアが幸せになれるはずがない。

 ライアンに対しての憧れはこの瞬間に捨てた。




 その後フェルナンドが一番にとった行動は、騎士団の同僚であるジルベルト・カーディリアンをレティシアに紹介することだった。

 自分が知るなかで、最も誠実な男がジルベルトだった。

 この男なら、必ずレティシアを幸せにしてくれるだろうと、当時のフェルナンドは考えていた。



 レティシアは美しく育った。

 社交の場で人々の視線の先に常にその姿を見つけることからも、決して身内の欲目などではないだろう。

 はちみつ色の長い髪が、風にゆらぎ、透き通る白雪のような肌が桃色に色づく様子は、可憐と表現する他ない。

 そしてその内面も、伯爵家という地位も権力も有した家柄に生まれたにも関わらず、奢ることなく、ただひたすらに他者への優しさと慈しみに溢れている。


 きっとジルベルトはそんなレティシアを好きになるだろう。


 2人を会わせた時、レティシアの上気した頬と、ジルベルトの照れくさそうな態度に、少し寂しい気持ちを覚えながらも、きっとこの2人は上手くいくと確信した。



 フェルナンドの思惑通り、2人は順調に仲を深め、ついにジルベルトがレティシアにプロポーズをした。


 これ以上ない良縁に、両伯爵家もすぐに承諾し、晴れて2人は婚約者となった。

 ライアンの目を潜り抜け、ここまでこぎつけた自分を褒めてやりたかったが、事はそう上手くは進まなかった。



 婚約と同時期に、ジルベルトの昇進が決まり、異常なほどに多忙になってしまったのだ。

 それこそレティシアと会う時間を作ることも難しい状況に、誰かの見えざる手を感じた。


 ジルベルトが屋敷に来なくなっても、ライアンは相変わらず定期的に訪れる。

 公爵位を継ぎ、我が国の要と呼び声高い若き宰相となったライアンは、ジルベルトなどよりよっぽど多忙だろうに、レティシアとの時間だけは確保しているようだった。


 時折顔を合わせると、昔と変わらず優しく微笑んでくれてはいるが、その瞳の奥が決して笑ってはいないことに、彼の人はフェルナンドが行ったことを全て知っているのだと気付かされた。

 無理やりにでもレティシアを奪うのではないかと、常に警戒をしていたが、何故かライアンは行動を起こすことはなかった。



 もう諦めたのだろうか。

 本当に?



 騎士団から王宮勤めにうつってからは、ジルベルトから近況を聞くことも出来ずにいたが、ついに2人の結婚式の日取りも決まり、フェルナンドは心の底から安堵した。


 きっとこのまま2人は結婚して、幸せに暮らすのだろう。

 異常な執着を見せていたライアンも、レティシアの幸せの前に、きっと身を引いたのだろう。




 そう思い始めたころ、不穏な噂を耳にした。




 ジルベルトが隣国ウィグナードからやってきているお姫様と恋仲にあるという、何とも不愉快な噂。

 初めはあまりのばかばかしさに、怒りさえわかなかったが、色々な人間の口からその噂を聞くようになると、ほんの少し不安を覚えた。

 それでも、あの誠実で真面目なジルベルトがレティシアを裏切るはずがないと、信じていた。






 その結果が、泣くこともできずに、ただただ茫然としているレティシアの姿だった。


 カーディリアン伯爵家から送られてきた婚約破棄の書状をグシャグシャに握りつぶした父。

 ソファに座りこんだまま虚構を見つめる娘を抱き締める母。

 今にもカーディリアン伯爵家へ殴りこみに行こうとしている弟。


 そして、フェルナンドはジルベルトとレティシアを引き合わせたことを死ぬほど後悔していた。




 幼い頃に必ず幸せにすると誓ったはずの妹。

 そんな大切な妹を不幸にした男を自分が手引きしたかと思うと、とても自分自身を許すことなどできない。



 カーディリアン伯爵家への報復を口にする家族を、そんなことは望まないと止めるレティシア。自分を裏切った男に、慈悲の心などくれてやる必要などないのに。





 婚約が破棄されてから塞ぎこんでしまい、屋敷から出たがらないレティシアを、なんとかして元気づけようと皆心を砕いたが、その表情が晴れることはなかった。



 そんな時、ライアンが唐突に屋敷を訪れた。



 きっとライアンはこの機会を逃すことはないだろう。

 そして弱ったレティシアは、昔から憧れていたライアンに傾いてしまうのではないだろうか。



 容易に弾き出された答え。




 思わず仕事も何もかも放り出して、かけつけた屋敷の奥にある応接室のドアの向こうから、レティシアの泣き声を聞いた時、フェルナンドは自身の敗北を認めた。




 いつだってレティシアが泣くのはライアンの前だけだった。

 病弱だった頃に何度も生死の境をさ迷い、周囲に心配をかけたことを気にしてか、フェルナンドたちが心配しないようにと、常に泣くことを我慢しているようだった。


 いくら自分たちが泣いても良いと言っても、大丈夫だからと、強がってみせる。

 そんなレティシアを簡単に泣かせることができるのが、ライアンだった。

 別に意地悪をして泣かせるわけではない。

 ただ一言言葉をかけるだけ、ただ頭を撫でるだけ、ただ隣にいるだけ。

 ただそれだけで、不思議なほど簡単にレティシアは泣いていた。



 こんなにも辛い状況にも関わらず、フェルナンドたちの前では、決して涙を見せることはなかったのに、ライアンの前ではこんなにも簡単に涙を流すことができる。



 ドアを開こうと伸ばしかけた手をゆっくりと下ろし、フェルナンドは諦めたように瞳を閉じた。











「フェルお兄様」



 己を呼ぶ柔らかな声に誘われて、ゆっくりと瞼を開くと、そこには心配そうに眉を寄せて、フェルナンドをのぞきこむレティシアの姿があった。


「お兄様、先ほどから目を閉じていらっしゃいますが、具合が悪いのですか?今日お休みをとるために、無理をされたのではないですか?」


 確かに、今日の休暇をもぎとるために、連日遅くまで王宮に詰めていたことは間違いではない。しかしそんなことより、何より。




「レティシア…………綺麗だな」





 はちみつ色の長い髪をゆるく結い上げ、いつもより少し大人びた化粧を施したレティシアは、ため息が出るほど美しかった。



「ふふ。お母様とライアン様が今日のために何日もかけて選びに選び抜いたドレスですもの。綺麗にきまっています」



 兄の様子から体調が悪い訳ではないと気付いたのか、安心したように微笑むと、真っ白なドレスの裾を軽く摘まんで、その繊細な刺繍へ視線を走らせている。

 フェルナンドの言葉を、衣装への称賛ととったようだ。

 相変わらず自己評価が低いようだが、目の前に立つレティシアがあまりにも嬉しそうに笑うから、フェルナンドはあえて否定の言葉を紡がなかった。




「レティ」




 兄と妹の穏やかなやりとりに水をさす声。



 どうやら迎えがきたようだ。



 この声の主が、レティシアに関してのみ心が狭いことに気づいたのはもう何年も前のことだ。


 この声の主が、女性のドレスを選ぶのに何日も何日も頭を悩ませるような男だと知ったのはたった今だ。



 肩から力がぬけた。



 名前を呼ばれたレティシアが、声の主に向かって歩き出す前に、ふとこちらを振り向いた。

 いつにもまして美しい妹に向かって口を開く。



「幸せか?」



 フェルナンドの問いかけに、目を少し見張る。


 そして次の瞬間レティシアが浮かべた表情。


 もう答えを聞く必要はなかった。









 happy end....?

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