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返事の来ない夜に、僕は世界を救うことにした。  作者: 黒木明


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第9話 返事の来た朝

朝だった。



カーテンの隙間から、薄い光が部屋に差し込んでいた。


最初に感じたのは、冷たさだった。


フローリングの床に、頬が触れている。


次に、冷蔵庫の低い音が聞こえた。


それから、どこか遠くで車が走る音。


誰かが階段を降りる音。


隣の部屋の水道が流れる音。


現実の音だった。



僕はゆっくり目を開けた。


見慣れた天井。


安い照明。


テーブルの上には、昨日食べかけたおにぎりが残っている。


椅子にはコートがかかっている。


充電器に繋がれたスマホが、床の近くに落ちていた。


全部、昨日のままだった。


でも、僕だけが少し違っていた。


身体を起こす。


全身が重い。


夢だったのかもしれない。


未返信世界。


未読獣。


返信塔。


保留蛇。


未練王。


リノ。


すべて、眠れない夜に見た悪い夢だったのかもしれない。


そう思いかけて、右手を見た。


手のひらに、白い線が残っていた。


細く、淡く。


編集ソフトの再生線みたいな一本の線。


僕はそれを見つめて、息を吐いた。


夢じゃなかった。



少なくとも、僕の中では。


部屋の中は静かだった。


通知音は鳴っていない。


僕は立ち上がり、スマホを拾おうとした。


その瞬間、スマホが一度だけ震えた。


心臓が跳ねた。


反射は、まだ消えていなかった。


でも、昨日までとは違った。


息が止まるほどではない。


世界が狭まるほどでもない。


僕は床に座ったまま、スマホを見た。


画面には、LINEの通知が表示されていた。


白乃ユイ。



本当に、来ていた。



時間は、朝の六時十二分。


メッセージの冒頭だけが見えている。


ハルくん、


この前のことなんだけど――


そこまで読んで、僕は目を閉じた。


未返信世界で見た文字と同じだった。


でも、これは現実だ。


僕の部屋で、朝の光の中で、僕のスマホに届いている。


本物のユイからのメッセージ。


指が震える。


読みたい。


当然だ。


三十日間、待っていた。


未返信世界の中でも、何度もその続きを読もうとした。


欲しくないわけがない。


怖くないわけがない。


でも、僕はスマホをすぐには開かなかった。


画面を伏せる。


深く息を吸う。


逃げたわけじゃない。


怖くなくなったわけでもない。


まだ、胸は痛い。


まだ、ユイの一文で自分が揺れることもわかっている。


でも、今の僕は、その一文に自分の全部を預けたくなかった。


僕は立ち上がった。


カーテンの前まで歩く。


指で布を掴む。


一瞬だけ、リノの声が聞こえた気がした。


ちゃんと朝を見て。



僕はカーテンを開けた。


朝の光が、部屋に流れ込んできた。


眩しくて、目を細める。


窓の外では、いつもの町が動き始めていた。


アパートの駐車場で、誰かが車のエンジンをかけている。


通学途中の学生が、自転車で坂道を下っていく。


コンビニの前では、作業着姿の男が缶コーヒーを買っていた。


世界は、僕の返事待ちなんて知らない顔で進んでいた。


冷たいと思った。


でも同時に、少し救われた。


世界が僕を待ってくれないなら、僕も世界に置いていかれたままではいられない。


僕は洗面所へ向かった。


蛇口をひねる。


冷たい水で顔を洗う。


眠れなかった夜の名残が、少しずつ流れていく。


鏡を見る。


ひどい顔だった。


目の下には薄いクマ。


髪は跳ねている。


唇は少し乾いている。


でも、不思議と昨日よりまっすぐ立っているように見えた。


僕はタオルで顔を拭いた。


それから、テーブルのおにぎりを見た。


昨日のままだ。


食べる気はしない。


でも、何か口に入れた方がいい。


僕は冷蔵庫を開け、ヨーグルトを取り出した。


スプーンですくって食べる。


味がした。


少し酸っぱくて、少し甘い。


それだけのことが、妙に嬉しかった。


スマホは、まだ伏せたままテーブルに置いてある。


白乃ユイからの返信。


そこにある。


開けば、何かが終わるかもしれない。


あるいは、何かが始まるかもしれない。


でも。


僕の今日だけは、もう始まっていた。





会社に行く準備をする。


シャツを着る。


少し迷って、昨日より明るい色の上着を選ぶ。


鞄にノートパソコンを入れる。


充電器を確認する。


鍵をポケットに入れる。


そのどれもが、普段と同じ動作だった。


でも、一つ一つが、現実に戻るための儀式みたいに感じた。


玄関に立つ前に、僕はスマホを手に取った。


画面には、まだ通知が残っている。


白乃ユイ。



ハルくん、


この前のことなんだけど――


僕は親指を画面の上に置いた。


開くことはできる。


今すぐ。


でも、開かなかった。


代わりに、通知だけを閉じた。


メッセージを消したわけじゃない。


ブロックしたわけでもない。


ただ、今読むのをやめただけ。


今日の僕が、まず自分の足で一日を始めるために。


スマホをポケットに入れる。


玄関のドアノブに手をかける。


その時、白い羽根が一枚、足元に落ちているのが見えた。


僕は目を疑った。


小さな、白い羽根。


リノの剣から舞っていたものに似ていた。


拾い上げると、すぐに光になって消えた。


代わりに、手のひらに薄い文字が浮かんだ。


――未完成のままでも、人は歩ける。


僕は笑った。


「知ってるよ」


誰に言ったのか、自分でもわからない。


リノにか。


未練王にか。


それとも、昨日までの自分にか。


ドアを開ける。


朝の空気が胸に入ってきた。


少し冷たい。


でも、ちゃんと吸えた。


階段を降りる。


アパートの外へ出る。


空は薄い青だった。


雲がゆっくり流れている。


町の音が、いつもよりはっきり聞こえた。


鳥の声。


遠くの車。


誰かの笑い声。


コンビニの自動ドアが開く音。


その全部が、僕に戻ってきたみたいだった。




会社に着いたのは、いつもより少し早かった。


事務所にはまだ誰もいない。


僕は鍵を開け、電気をつけた。


蛍光灯が一瞬だけ点滅して、部屋が白くなる。


編集席に座る。


パソコンを起動する。


昨日の観光PR動画のプロジェクトを開く。


タイムラインが表示される。


海。


商店街。


食堂。


夕日。


テロップ。


音楽。


修正コメント。


僕はしばらく、それを見つめていた。


昨日までなら、どこを触れば正解なのかばかり考えていた。


クライアントがどう思うか。


瀬名さんが何と言うか。


若い人に刺さるか。


感情が伝わるか。


もちろん、それは大事だ。


仕事だから。


でも、今は少し違った。


まず、自分が何を残したいのか。


何を切るのか。


どこで一区切りにするのか。


それを考えようと思えた。


僕は最初のカットを再生した。


夕日の海。


綺麗だ。


でも、少し長い。


瀬名さんの言葉を思い出す。


全部大事に見える時ほど、完成しない。


僕は笑った。


「ラフカット、か」


マウスを動かす。


最初の二秒を切る。


商店街へ早めに繋ぐ。


音楽を少しだけ前に出す。


テロップの位置を整える。


何度か再生する。


完璧ではない。


でも、昨日より流れがある。


僕は書き出し設定を開いた。


ファイル名を入力する。


観光PR_初稿_夜瀬。


初稿。


完成ではない。


でも、次へ進むための一区切り。


書き出しボタンを押す。


進捗バーが動き始める。


一パーセント。


三パーセント。


七パーセント。


その数字を眺めながら、僕はポケットのスマホを意識した。


ユイの返信は、まだそこにある。


読んでいない。


気にならないわけじゃない。


むしろ、ずっと気になっている。


でも、仕事を進められている。


それが少しだけ信じられなかった。


返事を読まないままでも、手は動く。


返事がわからないままでも、朝は進む。


それを、身体が少しずつ覚えていく。


書き出しが終わる。


僕はファイルを確認用フォルダに入れ、瀬名さん宛にメッセージを打った。


『観光PR動画、初稿を書き出しました。確認お願いします。まだ調整必要だと思いますが、一度この形で見てもらいたいです。』


送信。



送った瞬間、少しだけ緊張した。


でも、すぐに思った。


返事が来るまで、この仕事が存在しないわけじゃない。


評価される前から、僕はちゃんと作った。


その事実は消えない。


会社のドアが開く音がした。


瀬名さんが入ってくる。


眠そうな顔で、紙コップのコーヒーを持っている。


「早いな、ハル」


「おはようございます」


「昨日遅かったのに」


「なんか、目が覚めて」


瀬名さんは僕の顔を見て、少し眉を上げた。


「ひどい顔してるけど、昨日よりマシだな」


「それ、褒めてます?」


「まあまあ」


雑な返事だった。


でも、なぜか少し嬉しかった。


瀬名さんは自分の席に向かいながら言う。


「初稿見とくわ」


「お願いします」


数分後、瀬名さんの席から再生音が聞こえてきた。


僕は自分の画面を見ながら、心のどこかで反応を待っている。


でも、昨日までのような苦しさはなかった。


待っている。


でも、止まっていない。


しばらくして、瀬名さんが言った。


「いいじゃん」


たった一言。


僕は思わず顔を上げた。


「ほんとですか」


「うん。まだ直すとこあるけど、流れは出た」


まだ直すところはある。


でも、流れは出た。


その言葉が、胸にゆっくり染みた。


完成じゃない。


でも、一区切りにはなった。


僕は小さく息を吐いた。


「ありがとうございます」


瀬名さんはコーヒーを飲みながら言った。


「何か吹っ切れた?」


手が止まる。


「……少しだけ」


「そりゃよかった」


それ以上、瀬名さんは聞いてこなかった。


その距離感がありがたかった。




昼休み。


僕は会社の外に出た。


近くの小さな公園で、コンビニのパンを食べる。


ベンチに座り、空を見る。


春の風が少しだけ暖かい。


ポケットの中のスマホが、ずっと重い。


僕はそれを取り出した。


画面を開く。


LINEを開く。


非表示にしていたユイのトークは、新しいメッセージで一覧に戻っていた。


白乃ユイ。



未読のまま。


僕の指が、トークの上で止まる。


読むか。


読まないか。


朝は読まなかった。


仕事を始めるために。


今はどうだろう。


読めるだろうか。


読んでも、自分の全部を預けずにいられるだろうか。


少し考えて、僕はスマホを閉じた。


まだだと思った。


逃げかもしれない。


でも、今はまだ、昼の公園でパンを食べ終える方を選びたかった。


僕はパンを一口かじった。


ちゃんと味がした。


それで十分だった。


空を見上げる。


ふと、隣のベンチに誰かが座っている気がした。


見ると、誰もいない。


でも、白い羽根が一枚だけ風に乗って舞っていた。


僕は笑った。


「急かすなよ」


返事はない。


でも、どこかでリノが笑ったような気がした。




その日の仕事が終わったのは、午後六時半だった。


いつもより早い。


事務所を出ると、空は薄紫に変わり始めていた。


駅まで歩く道で、僕はスマホを取り出した。


もう一度、ユイのトークを開こうとする。


でも、指が止まる。


怖い。


それは朝と変わらない。


ただ、朝よりは呼吸ができる。


僕は立ち止まり、街路樹の下で目を閉じた。


どんな返事でも、僕の三十日は消えない。


未練王の最後の言葉を思い出す。


どんな返事でも。


嬉しい返事でも。


悲しい返事でも。


返事がなかったとしても。


僕が待った時間は、僕のもの。


僕が好きだったことは、僕のもの。


それを相手の一文で全部決めなくていい。


目を開ける。


スマホを見る。


僕は、トークを開いた。


白乃ユイからのメッセージが表示される。


ハルくん、


この前のことなんだけど、返事が遅くなってごめんね。


そこまで読んだところで、胸が強く痛んだ。


でも、読み進める。


すぐに答えを出せなくて、本当にごめんなさい。


僕は息を吸う。


文字が続く。


嬉しかった気持ちはあります。


でも、今の私は誰かと付き合う余裕がありません。


手が少し震えた。


予想していた言葉の一つだった。


でも、本物はやっぱり重い。


さらに読む。


ハルくんの気持ちを軽く扱いたくなかったから、ちゃんと考えようと思っていました。


でも、待たせてしまったこと自体が、たぶん失礼だったと思います。


ごめんなさい。


今は、恋人として向き合うことはできません。


世界が、少しだけ静かになった。


駅前の車の音も、人の声も、遠くに行った気がした。


僕はスマホを握ったまま、街路樹の下に立っていた。


胸は痛い。


痛いに決まっている。


期待していなかったわけじゃない。


どこかで、優しい返事を願っていた。


嬉しかったと言ってくれた。


ちゃんと考えようとしてくれた。


でも、答えはNOだった。


恋人として向き合うことはできません。


その一文は、想像していたより静かに僕の中へ入ってきた。


鋭い刃ではなく、重い石みたいだった。


ずしん、と胸の底に落ちる。


涙は出なかった。


少なくとも、その場では。


僕は続きを読んだ。


でも、今まで話してきた時間や、支えてもらったことは本当にありがたかったです。


体調や生活のことも気にしてくれてありがとう。


ハルくんが悪かったわけじゃないです。


ただ、私が今、誰かの気持ちを受け止められる状態ではありません。


最後に、こう書かれていた。


待たせてしまって、本当にごめんね。


ちゃんと伝えてくれてありがとう。


僕は画面を見つめた。


何度も読み返しそうになる。


でも、途中でやめた。


スマホを閉じる。


空を見る。


薄紫の空に、一番星が出ていた。


返事は来た。



答えも出た。



終わった。



そう思った瞬間、膝から力が抜けそうになった。


でも、倒れなかった。


僕は立っていた。


ちゃんと、現実の道の上に立っていた。


「そっか」



小さく呟く。


「そっか」



二回目の方が、少しだけ声が震えた。


通り過ぎる人が、僕をちらりと見る。


僕は慌てて歩き出した。


駅へ向かう。


胸は痛い。


でも、足は動く。


それが、少しだけ信じられなかった。


改札を通る前に、僕はスマホを開いた。


返事を書くか迷った。


長い文章が、頭に浮かぶ。


ありがとう。


大丈夫。


気にしないで。


こちらこそごめん。


本当はつらい。


でも幸せになってほしい。


いろんな言葉が出てきて、またタイムラインみたいに並ぶ。


全部大事に見える。


でも、全部は送らなくていい。


僕は短く打った。


ちゃんと伝えてくれてありがとう。


気持ちを考えてくれていたことも、正直に話してくれたことも嬉しかったです。


無理せず、自分の生活を大事にしてください。


僕も前に進みます。


打ってから、少しだけ見つめる。


重くないか。


格好つけすぎていないか。


本音を隠しすぎていないか。


考え始めたら、きりがない。


でも、今の僕が送れる一区切りとしては、これでいいと思った。


送信。



画面に、自分のメッセージが表示される。


今度は、それを何度も読み返さなかった。


スマホをポケットに入れる。


改札を通る。


電車のホームに立つ。


人がたくさんいる。


誰かはイヤホンをしている。


誰かは本を読んでいる。


誰かは眠そうに立っている。


誰かはスマホを見て笑っている。


みんな、それぞれの返事を待ちながら、それぞれの場所へ帰っていくのだろう。


電車が来る。


風が吹く。


僕は、ホームの端に立っている少年のことを思い出した。


兄ちゃんも、自分の試合見た方がいいよ。


「見てるよ」


小さく呟いた。


誰にも聞こえないくらいの声で。


電車に乗る。


窓に自分の顔が映る。


やっぱりひどい顔だった。


でも、今朝より少しだけ、進んだ顔だった。




夜。


部屋に戻った僕は、電気をつけた。


昨日食べかけたおにぎりは、さすがに捨てた。


代わりに、簡単な味噌汁を作った。


コンビニの惣菜も温める。


ご飯を食べる。


涙は、食べている途中で急に出た。


本当に急だった。


味噌汁を飲もうとして、喉の奥が詰まって、視界が滲んだ。


「あー……」


声にならない声が出る。


箸を置く。


両手で顔を覆う。


涙がこぼれる。


悔しいのか。


悲しいのか。


安心したのか。


全部だった。


ちゃんと断られた。


ちゃんと考えてくれていた。


でも、選ばれなかった。


僕が悪いわけではないと言ってくれた。


でも、恋人にはなれなかった。


その全部が、本物の返事だった。


塔が見せた優しい幻より、ずっと痛い。


でも、ずっと現実だった。


僕は泣いた。


少しだけでは済まなかった。


たぶん、三十日分泣いた。


未返信世界で泣けなかった分も。


保留にしがみついていた分も。


読まないと決めて踏ん張っていた分も。


全部、夜の部屋で流れた。


でも、不思議だった。


泣いているのに、沈んでいく感じはしなかった。


むしろ、胸の中に溜まっていた黒い水が、少しずつ外へ出ていくようだった。


しばらくして、涙が落ち着いた。


僕は顔を洗った。


鏡を見る。


さらにひどい顔だった。


笑ってしまった。


「何回ひどい顔になるんだよ」


自分に言う。


その時、鏡の端に白い羽根が映った気がした。


振り返る。


何もない。


でも、洗面台の水滴が、一瞬だけ光った。


そこに、リノの声が重なる。


ちゃんと自分に届く言葉を言ってね。



僕は鏡の中の自分を見た。


何を言えばいいのか、少し考える。


ありがとう。


頑張った。


つらかったな。


よく待ったな。


よく読んだな。


よく送ったな。


どれも少し照れくさい。


でも、今はちゃんと言った方がいい気がした。


僕は、小さく言った。


「ちゃんと好きだったよ」



鏡の中の僕が、目を伏せる。


続ける。


「ちゃんと待ったよ」



胸が痛む。


でも、言葉は出た。


「でも、もう進んでいいよ」



その瞬間、手のひらの白い線がふっと光った。


そして、少しずつ薄くなっていく。


完全には消えない。


でも、もう傷のようには見えなかった。


ただの線。


一区切りの線。


僕は深く息を吐いた。




翌朝。


僕は、昨日より少し早く目が覚めた。


カーテンを開ける。


朝日が入る。


スマホを見る。


新しい通知はない。


白乃ユイからの返信もない。


僕から送った返事は、既読になっていなかった。


それを見て、胸が少しだけ痛んだ。


でも、昨日ほどではない。


僕はLINEを閉じた。


非表示にはしなかった。


見えない場所へ追いやる必要が、今朝は少しだけ薄れていた。


もちろん、また苦しくなる日もあると思う。


夜になれば、読み返したくなるかもしれない。


もしもの未来を考えてしまうかもしれない。


でも、その時はまた区切ればいい。


何度でも、ラフカットすればいい。


完成じゃなくてもいい。


一区切りを重ねて、人は少しずつ進む。


僕は朝食を食べ、鞄を持った。


玄関で靴を履く。


ドアノブに手をかける。


少しだけ振り返る。


部屋には、スマホがある。


返事も、履歴も、思い出も、そこにある。


でも、それらを置いたまま、僕は外へ出られる。


ドアを開ける。


朝の空気が胸に入ってくる。


世界は、今日も僕の返事を待ってはいなかった。


だから僕も、もう待つだけの人間ではいたくなかった。


階段を降りる。


空を見る。


青い。


昨日より少しだけ、青い気がした。


ポケットの中でスマホが静かに重い。


でも、その重さごと歩ける。


好きだった気持ちも。


待った時間も。


選ばれなかった痛みも。


全部、持ったまま歩ける。



返事の来ない夜に、僕は世界を救うことにした。



そして、返事の来た朝。



僕はようやく、自分を救うことにした。

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