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返事の来ない夜に、僕は世界を救うことにした。  作者: 黒木明


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第1話 返事の来ない夜

告白の返事が来ないまま、三十日が過ぎた。


その間に、僕は何度もスマホを開き、何度も自分を嫌いになった。


それでも画面は、今日も静かだった。


通知は来る。


ニュースアプリの速報。

動画サイトのおすすめ。

ネットショップのセール案内。

昔なんとなく登録したままのゲームから届くログインボーナスの催促。


世界は毎日、律儀に僕へ何かを送ってくる。


けれど、白乃ユイからだけは、何も来ない。


僕はベッドの上で仰向けになったまま、暗い天井を見つめていた。


部屋の照明は消してある。

カーテンの隙間から、向かいのアパートの非常灯みたいな赤い光が、細く床に落ちていた。


枕元でスマホが一度だけ震える。


心臓が、少しだけ跳ねた。


反射的に手を伸ばす。


でも画面に表示されていたのは、動画編集アプリのアップデート通知だった。


僕は息を吐いて、スマホをベッドに放った。


「……違うだろ」


誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


ユイに言ったのか。

スマホに言ったのか。

それとも、いまだに期待してしまう自分に言ったのか。


三十日前の夜、僕はユイに告白した。


正確には、日付が変わったばかりの深夜だった。


仕事終わりに二人でご飯を食べて、そのあと少しだけ歩いた。

春の夜はまだ冷たくて、街灯の下で吐いた息が白く見えた。


ユイは、薄いベージュのコートの袖を両手でつかみながら、僕の少し前を歩いていた。

肩にかかるくらいの柔らかい茶色の髪が、夜風に小さく揺れていた。


派手な人ではない。

大きな声で笑う人でもない。


でも、人の話を急かさない人だった。


僕が言葉を探している間も、先に答えを決めつけたりしなかった。

困ったように笑う時、少しだけ目尻が下がる。

その表情を見るたびに、僕はなぜか、もう少しだけ本当のことを話してもいい気がしてしまった。


ユイは、誰かの弱さを笑う人ではなかった。


だからこそ僕は、自分の弱いところまで見せてもいいような気がしてしまった。


だから、好きになった。


守りたかったのかもしれない。

頼ってほしかったのかもしれない。


でも本当は、彼女の前にいる時だけ、自分が少しだけまともな人間に思えた。


僕は何度も言葉を選び直して、結局、いちばん普通の言葉しか言えなかった。


好きです。

付き合ってください。


その言葉を言うまでに、何百回も頭の中で練習したはずだった。

でも、口から出た瞬間、それは思っていたよりずっと小さくて、弱くて、頼りない音になった。


ユイは驚いた顔をした。


それから少しだけ視線を落として、困ったように笑った。


いつもの笑い方だった。


でも、その日は少しだけ違っていた。


笑っているのに、どこか苦しそうだった。


「少し、考えさせてください」


それが、最後の答えだった。


いや、正確には答えではなかった。

答えを出す前の言葉だった。


僕はその日からずっと、答えの前で止まっている。


朝起きてスマホを見る。

昼休みにスマホを見る。

仕事中、ポケットの中で振動した気がしてスマホを見る。

夜、風呂から上がってスマホを見る。

寝る前にスマホを見る。


そして、何も来ていないことを確認してから、眠るふりをする。


ふり、だった。


実際は、眠れていなかった。


頭の中で、何度も同じことを考える。


あの時、告白するタイミングが早すぎたのかもしれない。

もっと軽く言えばよかったのかもしれない。

そもそも、言わない方がよかったのかもしれない。


彼女は忙しいだけだ。

家庭のことも、引っ越しのことも、体調のこともある。

だから今は恋愛どころじゃない。


そう考えるたびに、自分を納得させられる気がした。


でも、納得は長く続かなかった。


もし本当に大切に思ってくれているなら、ひと言くらい来るんじゃないか。


待たせてごめん、とか。

まだ考えてるよ、とか。

今は無理だけど、落ち着いたら話そう、とか。


たったそれだけの言葉で、僕はきっと何日でも息ができた。


でも、その一文は来なかった。


来ない言葉を待つ時間だけが、静かに積もっていった。



夜瀬ハル、二十四歳。


地方の小さな映像制作会社に入って、半年が経つ。


鏡を見るたび、自分の顔が少しずつ薄くなっている気がした。

黒い髪はいつもどこか跳ねている。

目の下には寝不足の影がある。

服装はだいたいパーカーかシャツにスニーカー。

映像制作会社の新人らしいと言えば聞こえはいいけれど、実際はただ、毎朝きちんとした服を選ぶ余裕がないだけだった。


会社といっても、社員は社長を入れて七人しかいない。


観光PR動画。

企業の採用動画。

飲食店のSNS用ショート動画。

たまに結婚式のプロフィールムービー。


仕事の種類は多い。


けれど、僕が任されるのはだいたい地味な作業だった。


撮影補助。

素材整理。

テロップ入れ。

色味の調整。

字幕の誤字チェック。

クライアントから戻ってきた修正指示の反映。


特に、修正指示というやつが苦手だった。


今日もそうだった。


午後七時を過ぎた事務所で、僕はモニターの前に座り、観光PR動画のタイムラインを眺めていた。


画面には、海沿いの町をドローンで撮影した映像が映っている。

夕日が水面に反射して、オレンジ色の光が町全体を包んでいた。


素材そのものは悪くない。

むしろ綺麗だった。


でも、クライアントから返ってきたコメントは曖昧だった。


『もっと感情が伝わる感じでお願いします』


『でも重くなりすぎないように』


『若い人に刺さる雰囲気で』


僕はその三つの文章を見ながら、しばらく固まっていた。


感情が伝わる感じ。

重くなりすぎないように。

若い人に刺さる雰囲気。


「……それができるなら」


小さく呟く。


「僕の告白にも、もう少し上手い言葉を選べたのかもしれない」


自分で言って、情けなくなった。


仕事中に何を考えているんだろう。


僕はマウスを握り直し、テロップの位置を少しだけ上にずらした。


その瞬間、背後から声がした。


「ハル、そこじゃない」


振り返ると、先輩の瀬名さんが紙コップのコーヒーを片手に立っていた。


三十代前半。

編集も撮影もできる、この会社の中心みたいな人だ。

いつも眠そうな目をしているのに、映像の違和感だけはすぐに見つける。


「テロップの位置じゃなくて、流れ。見てる場所が細かすぎる」


「流れ、ですか」


「最初のカット、綺麗だけど長い。次の商店街に入るまでに少しダレる。若い人に刺すなら、最初の五秒で止めないと」


瀬名さんは僕の横に立ち、モニターを指差した。


「ここ、切って。で、二秒だけ早く商店街に行く。音も少し前倒し。気持ちよく入るように」


「あ、はい」


僕は言われた通りにタイムラインを動かす。


カット。

詰める。

音を合わせる。

再生する。


たしかに、少しだけ映像が軽くなった。

最初の数秒で、町の空気が伝わる感じがした。


瀬名さんはコーヒーを飲みながら言った。


「編集ってさ、何を残すかより、何を切るかだから」


その言葉に、僕の手が止まった。


何を切るか。


瀬名さんは続ける。


「全部大事に見える時ほど、完成しない。どこで区切るか、自分で決めないと」


胸の奥が、少しだけ痛んだ。


仕事の話だとわかっている。

映像編集の話だ。


でも、その言葉は、まるで僕の生活そのものに向けられているみたいだった。


全部大事に見える時ほど、完成しない。

どこで区切るか、自分で決めないと。


僕は曖昧に頷いた。


「……はい」


「今日中に初稿戻せそう?」


「戻せます」


「なら頼む。俺、別件の書き出し見るから」


瀬名さんはそれだけ言って、自分の席に戻っていった。


僕は再びモニターを見る。


タイムラインには、無数の細い線が並んでいる。


映像。

音声。

テロップ。

効果音。

調整レイヤー。


いくつもの素材が重なって、一つの映像になる。


なのに、僕の頭の中には、たった一つのトーク画面だけが居座っていた。


白乃ユイ。


その名前だけが、何度消そうとしても消えなかった。



仕事が終わったのは、午後十一時を少し過ぎた頃だった。


事務所を出ると、春の夜風が頬に当たった。

昼間は少し暖かかったのに、夜になるとまだ寒い。

歩道の端には、古い雪が灰色に固まったまま残っている。


駅前のコンビニだけが明るかった。


僕はそこでおにぎりとカップ味噌汁を買い、アパートに戻った。


部屋に着いても、灯りをつける気になれなかった。


暗いまま靴を脱ぎ、買ってきた袋をテーブルに置く。

コートを脱ぐ。

椅子にかける。

スマホを充電器に繋ぐ。


その動作の途中で、僕はまた画面を見た。


通知はない。


わかっていた。


わかっているのに、見る。


その自分が嫌だった。


僕はおにぎりのフィルムを剥がしながら、スマホを裏返した。


食欲はあまりなかった。

でも、食べないと明日がきつい。

そう思って口に運ぶ。


味はほとんどしなかった。


部屋の中には、冷蔵庫の低い音だけが響いている。


孤独というほど、大げさなものではない。


でも、誰にも呼ばれていない感じがした。


誰かの人生の中に、自分の席がない感じ。


スマホを裏返しているのに、存在だけが気になる。


見ないようにするほど、そこにあることを意識してしまう。


僕は食べかけのおにぎりを置き、両手で顔を覆った。


「もう、いいだろ」


声が漏れた。


「もう、十分だろ」


誰に許可を求めているのだろう。


ユイにか。


それとも、まだ期待している自分にか。


三十日。


短いと言えば短い。

長いと言えば、十分すぎるほど長かった。


少なくとも、僕の生活を壊すには十分だった。


僕はスマホを手に取った。


画面を開く。

LINEを開く。


トーク一覧の上の方に、白乃ユイの名前がある。


最後のやり取りは、数日前の体調を気遣うメッセージで止まっていた。


僕はそのトークを開かなかった。


開けば、また読み返してしまう。


どの言葉が悪かったのか。

どの絵文字が重かったのか。

もっと短くすればよかったのか。

そもそも送らなければよかったのか。


答えのない編集作業が、また始まってしまう。


僕はトーク一覧の上で、ユイの名前を長押しした。


メニューが出る。


通知オフ。

ピン留め。

非表示。

削除。


指が止まる。


ブロックじゃない。

削除でもない。


ただ、見えない場所に置くだけ。


拒絶じゃない。

終わりでもない。


自分を守るための、距離。


僕は小さく息を吸った。


そして、非表示を押した。


白乃ユイの名前が、トーク一覧から消えた。


ただそれだけだった。


世界は何も変わらなかった。


部屋の暗さも、冷蔵庫の音も、テーブルの上のおにぎりも、そのままだった。


でも、胸の中で張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


僕はスマホを置いた。


「これでいい」


そう言った。


言葉にしないと、また揺らぎそうだった。


「これで、いい」


その瞬間だった。


スマホが震えた。


僕の心臓が、嫌になるくらい正直に跳ねた。


通知が来た。


まさか。


そんなはずはない。


でも、まさか。


僕は反射的にスマホを掴んだ。


画面を見る。


そこに、ユイの名前はなかった。


代わりに表示されていたのは、見覚えのない通知だった。


黒い背景に、白い文字。


アプリ名はない。

送信者名もない。


ただ、一文だけが浮かんでいた。


――あなたの未返信が、世界を侵食しています。


「……は?」


声が出た。


僕は画面をタップする。


何も起きない。


もう一度タップする。


画面が、ふっと暗くなった。


バッテリー切れではない。

電源が落ちたわけでもない。


黒い画面の奥に、何かが広がっていく。


まるで、液晶の向こう側に夜の街があるみたいだった。


その街では、無数のスマホが空に浮かんでいた。


画面という画面が、こちらを向いている。


未読。

未読。

未読。

保留。

既読なし。

返信待ち。


文字が、雨のように降っていた。


僕はスマホを手放そうとした。


でも、指が離れない。


画面の奥から、通知音が鳴る。


一つ。

二つ。

十。

百。


無数の通知音が重なって、耳鳴りみたいに膨れ上がる。


足元が揺れた。


部屋の床が消える。


テーブルも、椅子も、食べかけのおにぎりも、冷蔵庫の音も、暗い天井も、全部が遠ざかっていく。


僕は落ちていた。


スマホの画面の中へ。


いや。


返ってこなかった言葉の底へ。


最後に聞こえたのは、誰かの声だった。


近くて、遠い。

少女のようで、少しだけ大人びた声。


「ようこそ、未返信世界へ」


次の瞬間、僕は夜の街に立っていた。


空には、月の代わりに巨大な通知マークが浮かんでいた。


そして、背後から獣の唸り声がした。


振り返る。


そこにいたのは、黒い犬のような形をした怪物だった。


顔はない。


代わりに、額の部分にスマホの画面が埋め込まれている。


画面には、たった二文字。


未読。


怪物が、ゆっくりと口を開いた。


中から聞こえてきたのは、獣の声ではなかった。


僕自身の声だった。


――まだ、返事来てないかな。


背筋が凍った。


怪物が地面を蹴る。


僕は動けなかった。


その時、横から白い光が走った。


怪物の胴体が大きく弾かれる。


僕の前に、一人の少女が降り立った。


銀色に近い短い髪。

黒いパーカー。

手には、光でできた細長い刃のようなものを持っている。


少女は振り返らずに言った。


「ぼーっとしないで。未読に食われるよ」


「未読に、食われる……?」


「そう。返事を待ちすぎた人間から順番にね」


少女は刃を構え直す。


「名前は?」


「……夜瀬、ハル」


「ハル」


少女はそこで初めて、少しだけこちらを見た。


不思議な目だった。


優しいのに、どこか諦めているような目。


「あなた、かなり溜め込んでるね」


「何を」


「返ってこなかった言葉」


怪物が再び起き上がる。


画面の未読という文字が赤く点滅していた。


少女は前を向く。


「私はリノ。ここでは、待ち続けた人間ほど強い」


「意味がわからない」


「今はそれでいい。どうせすぐわかるから」


リノは軽く笑った。


「あなたの未返信は、もう世界を壊し始めてる」


怪物が吠える。


その声の中に、僕の思考が混ざっていた。


――嫌われたのかな。

――重かったのかな。

――まだ待ってていいのかな。

――もう終わりなのかな。


僕は耳を塞ぎたくなった。


でも、リノが言った。


「耳を塞いでも無駄。あれ、あなたの中から出てきたものだから」


怪物が迫る。


リノが刃を振る。


光が弾ける。


僕はただ、その場に立ち尽くしていた。


返事の来ない夜に、僕は世界を救うことにした。


そんな大げさなことを考えた覚えはない。


ただ、ひとつだけ確かなことがあった。


僕はこの夜、初めて知った。


待ち続けた想いは、いつか怪物になる。

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