92話 更新
対局室。
静かだ。
畳の匂い。
秒読み前の、張り詰めた空気。
研究会とは思えないほど、人が集まっている。
理由は一つ。
三段になって初めての再戦。
水瀬遥 ― 雨宮澄人。
駒が並ぶ。
一礼。
対局開始。
パチ。
遥は飛車先を伸ばさない。
自然に飛車を振る。
三間飛車。
ゆっくりとした立ち上がり。
だが。
向かいの雨宮は、序盤から妙だった。
普通なら角道を止める局面。
なのに。
止めない。
むしろ。
自分から角道を開けたまま、角を前に出す。
「……?」
観戦していた若手が小さく眉をひそめる。
不用意。
いや。
露骨すぎる。
“取ってください”と言っているような角。
遥も止まる。
視線が盤をなぞる。
罠。
それは分かる。
だが――
角交換振り飛車では、角交換そのものは珍しくない。
問題は。
“どの形で交換させられるか”だ。
雨宮は、自分に都合のいい形へ誘導している。
遥は数秒考える。
そして。
パチ。
角を取る。
角交換。
その瞬間。
雨宮の口元が、わずかに上がる。
「……乗った」
小さい声。
遥は聞こえている。
だが、動じない。
互いに角を持ち合う。
ここからが本番。
普通の角交換振り飛車なら、
打ち込みの隙や、玉形の差が問題になる。
だが。
雨宮の狙いはもっと歪だった。
早い。
とにかく早い。
角交換直後から、一直線に急所へ踏み込んでくる。
まるで、
“この局面だけを何百回も並べた”ような速度。
遥の目が細くなる。
(……研究してる)
しかも。
ただの定跡研究じゃない。
“水瀬遥がどう受けるか”を前提に組まれている。
中盤。
雨宮はさらに尖る。
普通なら安全を取る局面。
だが。
自陣のバランスを崩してまで攻める。
危険。
なのに。
成立している。
「……」
遥は受けながら考える。
選択肢を増やす。
分岐を作る。
読ませて、外す。
今の遥の将棋。
だが。
雨宮は、その分岐すら追いかけてくる。
「そこまで読むんか」
遥が初めて声を漏らす。
雨宮は笑わない。
盤から目を離さず、静かに言う。
「読むんじゃない」
一手。
パチ。
「あなたになるんです」
空気が変わる。
観戦者の誰かが、息を呑む。
異様だった。
研究というより。
執着。
理解ではなく、侵食。
終盤。
盤面はねじれ切っている。
互いの玉が薄い。
一手ミスで終わる。
遥は考える。
読まれている。
でも。
全部じゃない。
まだ、自分でも知らない“次”がある。
その瞬間。
遥の手が止まる。
盤面が広く見える。
一本道じゃない。
昔みたいに、一つの攻めだけじゃない。
なら――
「……こっちか」
小さく呟く。
新しい筋。
今まで選ばなかった手順。
その瞬間。
雨宮が顔を上げる。
初めて。
本当に初めて。
予想外を見た顔。
そして。
次の瞬間。
抑えきれず、笑う。
「……ああ」
肩が震える。
嬉しそうに。
苦しそうに。
そして、叫ぶ。
「この瞬間のために――!!」
対局室が静まり返る。
雨宮の目だけが熱い。
「僕は生きている!!」
遥は、その声を真正面から受ける。
そして。
少しだけ笑う。
「重いねん、お前」
だが。
嫌そうじゃない。
むしろ――
楽しそうだった。
盤上。
まだ決着はついていない。
だが。
はっきりしている。
これはもう、
ただの再戦じゃない。
二人は今、
互いを使って、自分の将棋を更新している。




